最賃裁判は何を明らかにし、何を生み出したのか!
当事者が訴え続けた6年半
は じ め に
2011年6 月30日最賃裁判提訴当時の神奈川の地域最賃は時間額818円、2017年10月17日裁判終結時は時間額956円。ナントこの6 年3 か月で138円も最賃を引上げました。裁判で請求した「少なくとも最賃額は1000円に」まであと44円です。またこの最賃裁判をたたかうなかで、全国各地方の生計費調査にもとづく「最賃額は1500円にすべき」との大義ある要求と新たな運動のひろがりを生み出しました。
毎年の最賃額引き上げによって、低賃金・不安定雇用者が40%を占める神奈川県下の労働者約400万人のうちの10%近く、40万人前後の労働者の賃金を直接押し上げるまでの現実的効果をもたらしています。まさに罰則付きで賃金規制をおこなう最賃制の本領発揮です。
さらに、この毎年の最賃闘争は、最賃法違反の是正は勿論のこと、全国的かつ全労働者の賃金引き上げに、大きなインパクトをあたえる『社会的賃金闘争』までに発展してきています。
原告133人を擁し最賃ギリギリの労働と生活からの痛烈な叫びを前面にした最賃裁判の挑戦は、生活保護基準以下の逆転現象の最賃を抜本的に是正するという直接的な目標だけでなく、労基法第1条の「労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべき」賃金・労働条件、憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」、27条の「働く権利」、13条の「幸福追求権」、ILO提唱のディーセントワーク「良質な労働と生活」、国連の社会権規約の実現をもとめる、大志と意義あるものになりました。
カール・マルクスの「労働組合の過去・現在・未来(1866年)」にある「労働組合は、異常に不利な環境のために無力化されている農業労働者のような、賃金の最も低い業種の労働者の利益を細心にはからなければならない。労働組合の努力は狭い利己的なものではけっしてなく、ふみにじられた幾百万の大衆の解放を目標とするもの」の実践であるといえます。
この最賃裁判のスタート時の神奈川労連内の議論はどうだったか。西暦2010年代、全労連・神奈川労連を結成して20年がたち、財界の「新時代の『日本的経営』」戦略による正社員減少・非正規労働者増加、組織率減少、賃上げ相場づくりの春闘も高揚感を失うなかで、労働運動として何をなすべきか。ナショナルセンター、ローカルセンター結成時の熱い思いをどういかすのか。ILOが提唱するディーセント・ワーク(良質な労働と生活の実現)をどう実践するのか。世界の先進的な労働運動に学び何を実践するのか。
この労働運動の任務と社会的役割発揮を、神奈川労連と弁護団、先進的な学者などで、正面から議論し深めながらこの最賃裁判闘争を闘いぬいたことも今後の教訓とすべきと思います。
この最賃裁判の闘いのなかで、「全国どこでもただちに最賃額1000円、めざせ1500円」の全国一律最賃の要求が当たり前になってきました。この闘いの教訓である、①最賃ギリギリの賃金で苦しむ労働者の要求と思いを中心に位置付けて、②労働運動の最大の任務と社会的役割としての全国闘争・立法闘争を取組み、③憲法の理念と世界の最賃運動の到達点を活かし、大志をもった国民的闘争に発展させ、世界最先端の全国一律最賃制度を確定するチャンス到来です。
神奈川労連は、この全国最賃実現のために、その中心的役割を発揮していこうではありませんか。
最賃裁判の原告、弁護団、サポーターとして、さらに裁判傍聴や署名活動などに関わてくださったすべての皆さんに敬意と感謝を申し上げます。ありがとうございました。
2018 年4 月15日
神奈川労連副議長 水谷 正人
※ 最低賃金裁判における重要な資料は大量であり、全て本報告書に収めることはできませんでした。以下の資料は、神奈川労
連ホームページにアップしていきます。是非、ダウンロードしてご参照下さい。
1 .毎回の法廷で行われた、18人の原告意見陳述。
最低賃金裁判18人の原告陳述
【Aさん】
1 私は、働くことが大好きです。同じお金を手にするのでも、働いてお金を手にする方が充実感があり、人から感謝されることもありますから、何もしないでお金をもらうより、働いてお金を得る方が何十倍も気持ちが良いです。
けれども、やはり、働くことの一番の目的はお金を稼ぐことであり、お金を稼ぐことは自分や家族の生活を守っていくことです。私は、夫と別れてから、女手一つで3人の子を育ててきました。私にとって働くことは、子どもたちを養っていくことでした。
2 夫と別れた後、私は、スポーツ施設を経営する会社に雇われて、ゴルフのコーチとして働いてきました。しかし、コーチ業から得られる収入は、毎月の手取額で12万円程度にしかならなかったので、他にも、ゴルフ練習場の受付や病院のまかないの仕事もしてきました。
仕事を3つも掛け持ちしてきたので、1週間の中で休みは水曜日だけでした。しかも、唯一の休日である水曜日に、仕事が入ることも珍しくありませんでした。
働いて、疲れ果てて家に帰ってからも、食事の準備や洗濯、掃除もしなくてはなりません。子どもたちが興味・関心を持っている事について話をしたり、悩みを聞いてあげたりしたい気持ちを強く持っていても、そのための時間を持つことさえできませんでした。
3 私は、子どもたちに贅沢をさせたいと望んでいるわけではありません。しかし、衣食住に不自由をさせたくはないですし、たまには遊びにも連れていってやりたいです。また、子どもたちの将来を考えたとき、教育や進学にもお金が必要です。
しかし、私の収入が十分でなかったため、子どもたちには塾や受験を我慢させ、あきらめさせてきました。お金が無かっただけでなく、私が土日も働かなくてはならなかったため、子どもたちを遊園地や家族旅行に連れていってやることもできませんでした。
子どもを育てるには、愛情だけでなくお金も必要であることを、私は、自分自身の経験として痛感させられてきたのです。
4 最低賃金が1000円以上になれば、私の生活も少しは楽になります。また、働くこと以外の時間を、子どもたちと過ごす時間を増やすこともできるでしょう。
私は、自分の収入が少ないために、子どもたちに我慢や、辛い思いをたくさんさせてきました。そんな自分が情けなくて、悔しくて、夜中、河原で一人、大声で叫んだこともあります。そんな苦しい毎日を、私たちは送っているのです。
どうか、裁判官の皆様には、私たちが直面している厳しい現実に目を向けていただき、私たちが働くことで、人間らしく生きていけるような最低賃金を実現していただきますよう、心からお願い申し上げます。
以上
【Bさん】
1 私は、平成15年からタクシー運転手として働いています。3、4年前までは、手取りで23万円程度の収入がありましたが、ここ数年は、不景気のため手取り収入が18万円前後にまで減っています。月に5万円もの減収になり、生活は相当厳しくなっています。
2 私の会社では、歩合制度を導入しており、月の売上げが、「営業収入基準」と呼ばれる基準額を下回ると、歩合の割合が一気にさがり、手取り収入も大幅に減ってしまうシステムになっています。今年の2月に、私は、入社以来はじめて売上げが営業収入基準を下回り、その結果、手取り収入が13万9998円となってしまいました。
月の勤務時間は、1回の乗務が、午後2時から翌朝の10時まで20時間拘束、3時間の休憩をとって17時間の実労働であり、月12回の乗務が基本とされているので、所定労働時間は月204時間です。
2月分の給与明細を見ていただくとわかりますが、この月も、私は、月203時間勤務しています。それでも、歩合給は16万4962円であり、これを203時間の労働時間でわると最低賃金を下回る時給808円になってしまいます。会社が最低賃金を保障するための保障給を1267円を支給して、なんとか、当時の最低賃金である818円を保障している状況なのです。
3 私の会社では、月200時間以上の深夜早朝の長時間勤務をしても、売上が少なければ、手取り収入が14万円を切ってしまいます。これでは生活が成り立ちません。私は、運転や接客というタクシー運転手の業務は好きで、誇りをもってやってきましたが、あまりにも労働条件が過酷であるため、とても自分の子どもには勧められませんし、娘や息子には恥ずかしくて自分の給料を言えません。
売上げをあげるために長時間労働をして体をこわしてやめていく人もあとをたちません。私自身も、糖尿病を患っていますが、ここ数年の無理がたたり、病状は悪化しています。
4 私だけではありません。多くのタクシー運転手の生活レベルは、働いても生活保護以下の基準となっています。無理をして長時間働いて、税金を払っているのに、生活保護基準以下の収入しか得られないのであれば、誰もタクシーの運転手などやりたがらないのではないでしょうか。長時間労働、低賃金という過酷な労働条件で多くのタクシー運転手は疲弊しきっており、その結果、事故が増えたり、サービスの質の低下や運転マナーの低下といった悪影響が出ていることも事実です。関内の駅周辺でも、客待ちのために違法駐車をしているタクシーを見かけることがあると思います。
このような状況で、将来の展望がないということで、若い人たちはタクシー会社に入ってもすぐに辞めてしまいます。若い人が誇りをもって続けられる仕事にならないと、タクシー業界自体の存続が危ぶまれると思います。タクシー会社同士の競争も激しく、一社だけが賃上げをすることは期待できない状況ですので、このような過酷な労働条件を改善するためには、最低賃金を少なくとも1000円以上に引き上げることが必要不可欠だと思います。
5 私は、まじめに働いた人が、自分の仕事に誇りをもち、きちんと生活できという当たり前のことを実現したいと思い、この裁判の原告になることを決意しました。裁判で、自分の給料が安いということを公にすることは、とても恥ずかしいことです。それでも、私が裁判を決意したのは、私だけでなく、若い世代の人たちに希望と誇りをもってタクシー運転手の仕事をしてほしい、という強い思いがあるからです。裁判官には、どうか、その点を理解していただきたいと思います。
以上
【Cさん】
1 私は、現在52歳です。12年前から川崎のタクシー会社で運転手として働いてきました。しかし、病気や不景気のために給料が下がり続け、運転手の給料だけでは生活できなくなったため、今年の1月からは、働きながら生活保護を受けています。
2 会社の給料は、売上に応じた歩合給がベースです。私がタクシー運転手に転職したころは、今よりまだ景気もよく、私も休みなく働いていましたので、手取りで50万円ぐらいの給料をもらっていたこともありました。
しかし、ここ数年は不景気のために売上が減り続けており、今ではフルに働いても、額面で月14万円程度、税金や社会保険料を引くと10万程度の手取りです。
朝7時45分に会社に出勤して点呼を受けて、朝8時に出発、途中3時間の休憩をとって、翌日の午前4時半まで乗務して会社に戻り、4時45分に退勤するというのが1回の乗務です。21時間拘束、実働18時間の長時間乗務を月に所定の12回行っても、売上が少なければ、手取り収入が10万円程度になってしまう大変過酷な労働条件です。
3 私は、会社での長時間、不規則な勤務が原因で鬱血性心不全という心臓の病気になってしまいました。これまで3回入院して治療を受けています。持病の糖尿病も、タクシー乗務員の不規則な生活のため悪化してしまいました。
平成17年ころから、ただでさえ不景気で売上が減っている上に、病気のため仕事を休んで皆勤手当が減らされたり、欠勤控除されたため、収入がどんどん減っていきました。薬代などの医療費が月に3万円以上かかり、さらに、母親の介護費用もかかるようになったため、毎月の給料では足りず、貯金を切り崩すようになりました。以前は、毎月の給料から貯金をする余裕があり、300万円ぐらい貯めていたのですが、みるみるうちに貯金が減っていき、平成20年ころには貯金が底をつきました。
このころから、給料日前はほとんどお金がなくなってしまい、病院代や薬が払えずに未払いになってしまいました。昨年末ころには、月の手取り収入が10万円にまで減ってしまい、市営住宅の家賃1万4000円、光熱費1万円、医療費3万円、食費は自炊して節約しても5万円ぐらいはかかってしまいますので、節約できる限度を超えて、もはや生活が成り立たなくなってしまいました。
出費を抑えるために、ここ数年、洋服は新品を買わずに古着屋で購入しています。持っていた車は、維持できず手放しました。固定電話も、携帯電話も解約しました。以前は、社会情勢を知るために読売新聞と日経新聞を定期購読していましたが、月に1万円ぐらいの出費になるので、これもやめて、今は、たまに売店で新聞を買うだけです。散髪も、前は月に1回行っていましたが、今は自分で切ったり、見習いの理容師に無料で切ってもらって節約しています。昔はよくゴルフもやっており、スコア80台でまわるほどの腕前でしたが、そんな余裕は全くありません。以前は、同僚と飲みに行くこともありましたが、今ではそんなことは一切できません。
娯楽や趣味にまわせるお金は全くなく、毎日ただ生きているだけで、目の前が真っ暗になることがあります。
4 以前から、主治医に、安静にしないと心臓病や持病の糖尿病が悪化すると注意を受けていたのですが、生活のために仕事を辞めるわけにもいかず、長時間の深夜早朝の勤務を続けていました。しかし、今年1月、これ以上今の生活を続けたら体が危ないとドクターストップがかかってしまい、医師から紹介されたソーシャルワーカーの方に相談をして、生活保護の申請をすることになりました。当初、福祉事務所から、働いているなら生活保護は出せないと言われましたが、フルタイムで働いていたにもかかわらず直前3か月の給料が生活保護を下回っているということがわかり、今年1月に生活保護の決定が下りました。昨年10月から12月まで、月平均174時間勤務していましたが、時給にすると850円程度でした。
生活保護の受給が決まったころ、長年の無理が限界に達してしまい、病気のために休業しました。今年の10月21日からようやく仕事を再開することができましたが、仕事に戻っても給料が低いため、引き続き生活保護を受給することになると思います。
5 私は、父に「働かざる者食うべからず」と言われて育ち、自分の生活を支えるためには頑張って働いて収入を得なくてはならないという考えでこれまで生きてきました。生活保護というのは、言葉は悪いですが浮浪者の人などがもらうものだと思っており、生活保護を受けている人は怠けているのだと思っていました。ですから、まさか、自分が仕事もしているのに生活保護を受けることになるとは思ってもみませんでした。しかし、休みなく深夜早朝まで働いても収入が10万円しかなければ、どうやっても生活できません。今回、生活保護を受けることができて、本当に救われました。それと同時に、なんで一生懸命働いている自分が生活保護を受けなくては生活できないのか、という疑問もわいてきました。
タクシー運転手は、客商売なので神経も使うし、ストレスもたまります。また、人の命を預かる仕事なので責任も重大です。しかし、私だけでなく、タクシー乗務員全体の給料は下がる一方です。今の会社では、一番たくさん給料をもらっている乗務員でも手取りで18万円ぐらいです。せめて手取りで20万円ぐらいの収入があれば、なんとか生活していけると思いますが、今の給料は安すぎると思います。
ここ数年、体調も悪くなり、経済的にも追い込まれ、一生懸命働いているのになんでこんな思いをするのだろうと精神的にもどんどん辛くなっていきました。今回、働きながら生活保護を受給することになり、働いても食えない、という現状に疑問をいだき、この裁判に原告として参加すること決めました。
裁判官には、この苦しい状況をどうか十分に理解していただき、最低賃金を引き上げる判決を出して欲しいと思います。
以上
【Dさん】
1 私は,今年31歳になります。
高校を卒業した後,運送会社でアルバイトとして働いたことを皮切りに,幾つかアルバイトをしてきましたが,今から7年ほど前に都筑区の学童保育のアルバイトを始めました。そこで知り合った方に川崎市の学童保育を紹介してもらい,それ以来,二つの学童保育を掛け持ちして働いています。
学童保育を通じ,多くの子どもと接する中で,子どもと接する楽しさや子どもの成長を見守っていけることにやりがいを感じ,教員になりたいと思うようになりました。その頃から教員免許を取るために通信教育で勉強を始め,現在まで7年ほど続けています。
2 私は,現在,川崎市のわくわくプラザと都筑区の学童保育の仕事をして収入を得ています。わくわくプラザの時給は893円ですが,これは川崎市で公契約条例が制定され,川崎市が発注する仕事では時給を893円以上にしなくてはならなくなったおかげで,去年,一気に33円も上がりました。公契約条例のありがたさをしみじみと感じる反面,それでも,都筑区の学童保育の仕事は時給920円ですから,公契約条例の最低時給も,もっと引き上げて欲しいです。
昨年12月は,わくわくプラザで35時間,都筑区の学童保育で63時間働きました。毎月,2つの学童保育を合わせて,100時間程度働いていますが,月収は10万円にも届きません。
教員免許を取るため,勉強の時間も確保したいですから,働く時間を大きく増やすわけにもいかず,今のままでは,私の収入は完全に頭打ちの状況です。
3 私の収入は,先ほど述べた金額に止まっていますから,毎日の生活は苦しいです。食事は食材を安くまとめ買いし,自炊して節約しています。去年の春から洋服は買っていません。休みの日に遊びにでかけたいと思っても,食費を切り詰めるしかなく,休日は家で過ごすことがほとんどです。
私は,教員免許を得るべく勉強を続けていますから,その費用もかかります。通信教育の費用として,初年度は年間20万円を,現在も年間6万5千円程度を支払っています。この支払は,毎年2月に一括で行うので,いつもそのお金を作るのに苦労します。今年も支払が迫っていますが,まだお金を用意できていません。
また,通信教育を受ける他に,スクーリングと言っていますが,学校に授業を受けに行って単位を取る必要もあります。毎年1週間程度,授業を受けて,5単位ほどとるのですが,1単位取るのに1万円程度の費用がかかります。スクーリングの日は仕事ができず,別途交通費等もかかりますから,目先の収入をとるか,教員になるという夢を実現するためにスクーリングを受けに行くべきか,いつもそのバランスに悩んでいます。
生活が苦しいので,私は,ここ2,3年,国民年金の保険料を支払っていません。収入が増えない中,国民年金の保険料を支払う費用を確保できなくなり,支払いたくても支払えない状態になってしまいました。そのため,老後の不安についてはもちろんありますが,高齢者を支えなければいけない現役世代として申し訳ない,情けない気持ちの方が大きいです。しかし,今生きていくだけのお金も足りない状況なので,年金のことはあまり考えないようにしています。
4 私には,2年ほど付き合っている彼女がいます。彼女は病気を抱えており,仕事を続けることが困難なので,現在生活保護を受けています。彼女は,家賃5万円を含めて,毎月13万円の支給を受けています。
彼女とは結婚の話をすることもあります。私は子どもが好きなので,ゆくゆくは彼女と結婚し子どもを作ろうと思っていますし,彼女も同じ気持ちです。
しかし,二人が結婚すると,彼女と収入のある私と世帯が一つになりますから,彼女の生活保護が打ち切られるか,良くても金額が大幅に減らされてしまいます。そうなれば,今だってギリギリのところでお互い生活をしているのに,生活が成り立たなくなってしまいます。そのため,私の給料がある程度上がらないと結婚することはできませんし,当然ですが,子どもをつくることも考えられません。
少子化の原因として,草食系の男子が増えたせいだなどという無責任な意見を耳にすることがあります。しかし,実際は,私たちのように,生活苦のために子どもが欲しくても叶えられない人だって多くいるのです。少子化対策ということを本気で考えるなら,若者の生活を安定させることが何より重要です。若者が,子どもを育てられるだけの収入を得られるようにすることが必要だということを,どうして分かってもらえないのでしょうか。
5 私がこの裁判のこと,特に最低賃金と生活保護の逆転状態のことを聞いたとき,まさに私と彼女が直面している問題だと思いました。彼女との結婚を考えた時,彼女の生活保護が結婚によって減額されるという理由で,結婚を躊躇しなければならない今の状況が,最低賃金が低すぎるために生活保護に頼らざるを得ない多くの方の窮状と重なって見えます。
最低賃金が生活保護よりも低いなら,生活保護を引き下げろなどという意見を耳にすることがありますが,もし今生活保護が引き下げられたら,それこそ私たちのように生活苦のために結婚や子どもを生み育てるどころではなくなり,生活そのものが成り立たなくなってしまう人々が大勢増えてしまうのではないかと思います。何よりも必要なことは,最低賃金を引き上げることなのです。
私たちが望むのは,展望が見える生き方をしたい,将来に希望が欲しいということだけです。私のように,最低ラインぎりぎりのところでの生活を続けていると,ずっとこのまま苦しい生活が続くのではないかというイメージしか持てません。もっと怖いのは,こんな苦しい状況でも,その状況に慣れてしまうことで,自分たちの生活に足りないものがいっぱいあるはずなのに,そのことに気づけなくなっていることです。
教員免許を取得するための勉強,彼女と過ごす時間,趣味のフットサル,自分の生活を充実させるために,もっと時間を使いたいですが,それすら思うようにいきません。自分がやりたいことも,今の収入では我慢しなければならず,そのうち人生を充実させたいという想いすら薄れて,最後はただ生きているだけの人間になってしまう気がします。そんな人生は,人間らしい人生とは言えないでしょう。
この裁判で最低賃金が上がり,私の収入が増えれば,私も彼女も,未来に夢や希望を持てるようになります。だからこそ,一日も早く,最低賃金を大きく引き上げて欲しいのです。
ですから,国の代理人の方たちには,訴訟要件がどうのこうのと形式的なことばかり言うのでなく,早く,実質的な中身の話に入って下さい。
そして,裁判所におかれましては,どうか,最低賃金を引き上げる判決を出してください。宜しくお願いします。
以上
【Eさん】
1 私は現在63歳で、妻と2人暮らしです。子どもはいません。
私は、高校を卒業した後、当時の日本国有鉄道(国鉄)に入社して、電車運転士として働いてきました。年をとるにつれて目の調子が悪くなっていき、小田原から東京の大井町までの長時間の通勤の負担も大きく、運転士としての業務を続けることが体力的に厳しくなってきたので、57歳のときに休職制度を利用して、現役を引退しました。2年間の休職期間を経て、59歳のときにJR東日本鉄道株式会社を早期退職しました。
2 定年退職後、しばらくは体調をととのえる充電期間と考え、再就職をしないで過ごしていました。2003年に小田原に自宅を買っていたので、退職金でローンを完済し、貯金と60歳から一部受給している年金で生活をしていました。
しかし、実際に生活をしてみると、年金だけでは生活がまかなえず、3年間ほどで貯金が底をついてしまいました。
年金は、60歳から受給している厚生年金の比例報酬部分が月10万円程度です。住宅ローンの返済は終わったものの、月の生活費10万円では苦しく、自宅を売ることも考え今後の生活について妻と話し合い、友人にも相談しました。友人からは、苦労して建てた家を手放すのはもったいない、まだ体が健康だから仕事を探し、生活を立て直した方が良いとアドバイスを受け働く決心をしました。
3 そこで、おととしから仕事を探して就職活動をはじめました。
高齢者の就職は思っていた以上に厳しく、知人から求職広告や情報をもらったり、職業安定所へ毎日のように足を運び、パソコン検索をして職員と面談して紹介状を書いてもらい十数社面接をしましたが採用されませんでした。知人の紹介でアルバイトをしましたがギフトの箱詰めの仕事で期間限定だったため一ヶ月で職を失いました。その後も就職活動を続け、ようやく昨年二月から現在勤務している会社に雇用されました。
仕事は、湯河原にある高級リゾートマンションの清掃です。
9時から5時までの一日7時間労働で、時給は850円、月に15日勤務です。三人で交代制勤務のため勤務日数の増加は望めず、月の収入は9万円程度です。自宅から最寄りの小田原駅まで徒歩20分ぐらいかかりますが、バス代が出ないので、自転車で通勤しています。会社から自転車保険に加入することを義務付けられていますが、保険料は自分で負担しています。シフト制なので土日祝日は関係なく働いていますが、休日に出勤しても手当ては全くありません。
主な作業は7階にある天然温泉風呂の清掃で、毎日行いますが中腰の作業が多くつらい仕事です。特に夏は、42度に設定した温泉の湯船の周りで作業するため熱気で大変です。仕事をはじめて4ヶ月たった頃、腰に違和感を覚え、痛みを感じるようになりました。元々椎間板ヘルニアの持病があり、ひどくなる前にリハビリ通院しながら、いつ再発するか不安でコルセットしながらの作業をしています。また、筋肉痛にも悩まされ貼り薬を常用するようになりました。ひどい時は飲み薬も併用しています。
最近では休日でも疲れがとれず、翌日仕事の朝は出勤するのがつらいと感じる日が多くなってきました。就職活動を始める前に62kgあった体重も52kgに激減してしまいました。身体に変調が見える現在、今後の生活を考えるといつまで仕事を続けられるのか不安になります。
4 再就職先が見つかるまでの間、年金だけでは生活できず、国民健康保険料や固定資産税などの支払いが滞ってしまい、友人からも当面の生活費を借金しました。
年金と給料で月19万円程度の収入にはなりますが、滞納した税金や借金の返済、医療費などの出費があり、生活は非常に苦しいです。仕事で腰を痛めてしまったので、医療費の負担が増え月7~8千円はかかり家計を圧迫しています。出費を抑えるため新聞や固定電話を止め、保険も解約しました。生活用品の購入では知人から新聞折込の安売りチラシを回してもらい活用し、食品が値引きされる夕方の時間帯に買い物に行くようにしています。散髪は妻にしてもらい、好きなお酒も量を減らし家で飲むよう心がけ節約に努める毎日です。
ずっと専業主婦だった妻も、家計を助けるためにホテルの清掃員のアルバイトをはじめました。時給は900円です。一日の労働時間は短く、交通費も支給されません。妻もこの裁判の原告になっています。
お互い仕事の休みがあわず、すれ違いの日も多く、以前に比べ生活の中での会話も減ってきています。
5 最低賃金を引き上げてもらえれば、借財も早く返済でき人並みの生活に戻って、老後を安心して暮らせる貯蓄ができます。希望が見えればより一層働く意欲がわきます。
私は全日本年金者組合に加入しています。周りには私と似た境遇の仲間が多くいます。年金だけでは生活が苦しく余裕がない状況のもとで高齢にもかかわらず生きるために低い賃金で懸命に働いています。今年の4月には年金が0.3%引き下げ、10月には0.9%引き下げされて年金収入は今後も減っていくことが予想されます。また、今後、年金支給開始年齢はどんどん引き上げられていき、60歳で定年退職してからも年金がもらえるまで働かなくてはなりません。
実際に就職活動をしてみて高齢者の再就職が厳しいことを実感しました。時給1000円を超えるような仕事はまずありません。高齢になると体力的にも長時間の仕事は厳しく、不安です。
高齢で働く人はもう先の時間がありません。一日も早く最低賃金を引き上げて欲しいと思います。裁判官の方にはこの苦しい実情を理解していただき、最低賃金を千円以上に引き上げる判決を出してください。よろしくお願いします。
以上
【Fさん】
1 私は現在63歳で、妻と2人暮らしです。子どもはいません。
私は、高校を卒業した後、当時の日本国有鉄道(国鉄)に入社して、電車運転士として働いてきました。年をとるにつれて目の調子が悪くなっていき、小田原から東京の大井町までの長時間の通勤の負担も大きく、運転士としての業務を続けることが体力的に厳しくなってきたので、57歳のときに休職制度を利用して、現役を引退しました。2年間の休職期間を経て、59歳のときにJR東日本鉄道株式会社を早期退職しました。
2 定年退職後、しばらくは体調をととのえる充電期間と考え、再就職をしないで過ごしていました。2003年に小田原に自宅を買っていたので、退職金でローンを完済し、貯金と60歳から一部受給している年金で生活をしていました。
しかし、実際に生活をしてみると、年金だけでは生活がまかなえず、3年間ほどで貯金が底をついてしまいました。
年金は、60歳から受給している厚生年金の比例報酬部分が月10万円程度です。住宅ローンの返済は終わったものの、月の生活費10万円では苦しく、自宅を売ることも考え今後の生活について妻と話し合い、友人にも相談しました。友人からは、苦労して建てた家を手放すのはもったいない、まだ体が健康だから仕事を探し、生活を立て直した方が良いとアドバイスを受け働く決心をしました。
3 そこで、おととしから仕事を探して就職活動をはじめました。
高齢者の就職は思っていた以上に厳しく、知人から求職広告や情報をもらったり、職業安定所へ毎日のように足を運び、パソコン検索をして職員と面談して紹介状を書いてもらい十数社面接をしましたが採用されませんでした。知人の紹介でアルバイトをしましたがギフトの箱詰めの仕事で期間限定だったため一ヶ月で職を失いました。その後も就職活動を続け、ようやく昨年二月から現在勤務している会社に雇用されました。
仕事は、湯河原にある高級リゾートマンションの清掃です。
9時から5時までの一日7時間労働で、時給は850円、月に15日勤務です。三人で交代制勤務のため勤務日数の増加は望めず、月の収入は9万円程度です。自宅から最寄りの小田原駅まで徒歩20分ぐらいかかりますが、バス代が出ないので、自転車で通勤しています。会社から自転車保険に加入することを義務付けられていますが、保険料は自分で負担しています。シフト制なので土日祝日は関係なく働いていますが、休日に出勤しても手当ては全くありません。
主な作業は7階にある天然温泉風呂の清掃で、毎日行いますが中腰の作業が多くつらい仕事です。特に夏は、42度に設定した温泉の湯船の周りで作業するため熱気で大変です。仕事をはじめて4ヶ月たった頃、腰に違和感を覚え、痛みを感じるようになりました。元々椎間板ヘルニアの持病があり、ひどくなる前にリハビリ通院しながら、いつ再発するか不安でコルセットしながらの作業をしています。また、筋肉痛にも悩まされ貼り薬を常用するようになりました。ひどい時は飲み薬も併用しています。
最近では休日でも疲れがとれず、翌日仕事の朝は出勤するのがつらいと感じる日が多くなってきました。就職活動を始める前に62kgあった体重も52kgに激減してしまいました。身体に変調が見える現在、今後の生活を考えるといつまで仕事を続けられるのか不安になります。
4 再就職先が見つかるまでの間、年金だけでは生活できず、国民健康保険料や固定資産税などの支払いが滞ってしまい、友人からも当面の生活費を借金しました。
年金と給料で月19万円程度の収入にはなりますが、滞納した税金や借金の返済、医療費などの出費があり、生活は非常に苦しいです。仕事で腰を痛めてしまったので、医療費の負担が増え月7~8千円はかかり家計を圧迫しています。出費を抑えるため新聞や固定電話を止め、保険も解約しました。生活用品の購入では知人から新聞折込の安売りチラシを回してもらい活用し、食品が値引きされる夕方の時間帯に買い物に行くようにしています。散髪は妻にしてもらい、好きなお酒も量を減らし家で飲むよう心がけ節約に努める毎日です。
ずっと専業主婦だった妻も、家計を助けるためにホテルの清掃員のアルバイトをはじめました。時給は900円です。一日の労働時間は短く、交通費も支給されません。妻もこの裁判の原告になっています。
お互い仕事の休みがあわず、すれ違いの日も多く、以前に比べ生活の中での会話も減ってきています。
5 最低賃金を引き上げてもらえれば、借財も早く返済でき人並みの生活に戻って、老後を安心して暮らせる貯蓄ができます。希望が見えればより一層働く意欲がわきます。
私は全日本年金者組合に加入しています。周りには私と似た境遇の仲間が多くいます。年金だけでは生活が苦しく余裕がない状況のもとで高齢にもかかわらず生きるために低い賃金で懸命に働いています。今年の4月には年金が0.3%引き下げ、10月には0.9%引き下げされて年金収入は今後も減っていくことが予想されます。また、今後、年金支給開始年齢はどんどん引き上げられていき、60歳で定年退職してからも年金がもらえるまで働かなくてはなりません。
実際に就職活動をしてみて高齢者の再就職が厳しいことを実感しました。時給1000円を超えるような仕事はまずありません。高齢になると体力的にも長時間の仕事は厳しく、不安です。
高齢で働く人はもう先の時間がありません。一日も早く最低賃金を引き上げて欲しいと思います。裁判官の方にはこの苦しい実情を理解していただき、最低賃金を千円以上に引き上げる判決を出してください。よろしくお願いします。
以上
【Gさん】
1 私は,20歳の息子と19歳の娘を持つ母です。夫は平成12年に家を出ていき,平成14年に離婚しました。夫は,出て行ったきり,生活費を入れなくなってしまいました。離婚するときに,子どもたちの養育費は払うと約束しましたが,具体的な金額を決める前に行方がわからなくなってしまいました。
そのため,私は,夫が出て行って以降,二人の子どもたちと生きていくために,働くようになりました。ただ,それまで専業主婦で何のキャリアもなく,また40歳近かった私が正社員として就職し,安定した収入を得ることなどできませんでした。看護師の資格を取ることも考えましたが,資格を取るためには一定期間の勉強が必要でしたので,その間も家族3人が食べていかなければならない現実を考えると,悠長なことは言っていられず,あきらめました。
それでも,なんとかヘルパーの資格を取って,ホームヘルパーの仕事,や病院の助手,事務のパートなどをして収入を得ました。しかし,収入は手取りで15,6万円程度で,育ち盛りの二人の子ども2人を養っていくには全く足りませんでしたので,そのころから母のいる家に居候させてもらうようになりました。
2 その後,平成17年に大手電機メーカーで派遣社員として働くようになりました。時給は1100円から始まり,最終的に1230円まで上がり,手取りも17,8万円くらいありましたので,このころは母に生活費の一部としてお金を渡すこともありました。
3 しかし,平成22年3月にこの会社を派遣切りされてしまいました。その後,約4ヶ月間仕事を探しましたが,なかなか見つかりませんでした。そして,その年の8月にようやく病院のパート事務員の仕事を見つけ,現在まで働いています。
時給は900円で,午前8時30分から午後5時まで週5日働いています。ひと月の給与は,交通費を入れて手取り13万円程度にしかなりません。1月や9月など,休みの多い月は10万円くらいしかもらえません。仕事に家事にと体は辛いですが,祝祭日に働けず,給料が減ることの方が何よりも辛いことです。
4 私たち家族3人は,今も,年金で暮らしている母の家に居候させてもらっています。私は,母に頼らず自立した生活を送りたいと思っているのですが,今の収入では母の家を出ることはできません。それどころか,生活費も入れる余裕がありませんので,半ば年金の母に食べさせてもらっているようなものです。
母は,遺族年金をもらっているため,もし私たちがいなければ,今頃,他の同年代のお友達と食事や旅行へ行ったりして,悠々自適な暮らしをしていたはずです。しかし,現実は,平日働いている私に代わって夕飯の買い物やその支度をしています。私はその食費もなかなか出せませんので,母は,そのことでかなりイライラがたまっているのか,ささいなことをきっかけに,私たち家族に辛く当たることがあります。「その弁当を作れるのは誰のおかげかわかってるのか!」とか,電気をつけっぱなしにしていると「誰が電気代を払っていると思ってるの!」と子どもたちにまであたり散らします。母は,昔はこんなことを言う人ではなかったのですが,お互いお金に余裕のない生活を送る中で,言いたくもない事を言わざるを得ない状況になっているのだと思います。
子どもたちは,母からお金のことでいろいろ言われて育ったせいか,冷蔵庫の中のジュースやお菓子を勝手に飲み食いするようなことはしませんし,いくら暑くてもクーラーをつけたりしません。私の収入が少ないばかりに,子どもたちに自宅に居ながら肩身の狭い思いをさせてしまっています。
5 私は,ここ10年くらいでしょうか,自分の洋服を買った覚えがありません。また,子どもたちにも満足な小遣いをあげることができません。子どもたちには勉強の合間にアルバイトをしてもらって自分の小遣いを稼いでもらっています。私自身もおしゃれな恰好をして出かけたいという思いもありますが,何より子供たちに不自由な思いをさせていることが母親としてとても辛いことです。
特に,娘は,昔,「薬剤師になりたい」と言っていたこともありました。しかし,お金のことで窮屈な思いをしていましたので,中学生のときには「公務員が一番堅い」「早く働きたい」と言うようになりました。私としては,他の同級生と同じように娘を大学に行かせてあげたかったし,「大学に行きたければ行っていいんだよ」と何度も聞いたのですが,娘は,「専門学校でいい。すぐ就職する。」と言ってききませんでした。結局,娘は,高校卒業後,公務員を目指すための専門学校に入りました。娘は,決して言葉には出しませんが,キャンパスライフへの憧れはあったと思います。ただ,娘の性格からして,私や母に気を遣って,専門学校に進んで早く就職する道を選んだのだと思います。娘にそこまで気を遣わせてしまっていると思うと,情けなくてたまりません。
6 ただ,私は,子どもたちに大学に行ってもいいんだよと言いながら,子どもたちの学費を払えず,経済的な負担をかけてしまっています。
今,長男は私立大学の理工学部の3年生で,学費は年間120万円程度かかります。長女は,2年制の専門学校に行っていて,学費は年間100万円ほどかかります。子どもたちには奨学金を年間120万円借りてもらって,その学費に充てています。専門学校は2年制なので,長女の借金は200万円ほどですが,長男は,理工学部だと学部に5年間行くことも珍しくないので,約600万円の借金を背負って社会人になることになります。子どもの教育にはお金を惜しみたくないという思いは他のお父さんお母さんと同じですが,現実は,大きな借金を負わせる形で私の収入の少なさのしわ寄せが子どもたちにいっているのです。
私の収入が少ないばかりに,家では子どもたちに肩身の狭い思いをさせてしまい,さらに大きな借金を背負わせてしまい,子どもたちには本当に申し訳なく思っています。
7 私は,時給900円で毎日働いても,家族3人が自立して生活できないのであれば,いっそ仕事を辞めて生活保護をもらった方がよっぽど楽だし,収入もいいのではないかと考えるときもあります。ただ,体だけは健康だし,働くことにやりがいもありますので,仕事をやめるようなことはしません。でも,その働いている人の最低賃金が生活保護よりも低いということは,誰がどう考えてもおかしいと思います。さらに,今生活保護を切り下げてその逆転現象を解消すべきだと言うような人もいますが,理解できません。その人たちは,人としての最低限度の生活,文化的な生活を一体どのように考えているのか,聞いてみたいです。
私は,私たち家族は何も贅沢な生活をしたいと言っているのではありません。家族3人が自立した生活をしたい,自分の生活は自分で築きたいと思っているだけです。そのためには,やはり生活の基盤である収入をあげなければ実現できません。最低賃金をあげてくれなければ今の生活は変わらないのです。その想いでこの裁判に参加しました。
裁判官におかれましては,是非私たちの気持ちや生活の現状を酌んで,最低賃金を1000円以上にする判決を出して欲しいと思います。
以上
【Hさん】
1 僕は、今年の春に高校を卒業したばかりの18歳です。
僕の親は、僕が小学生になるときに離婚しました。それから僕と母親と姉、兄の4人暮らしが始まりました。母は,僕たちを育てるために、ゴルフ練習場の受付けやインストラクター、病院のまかないなどをして必死に働いてくれました。学年が上がるたびに、母はますます忙しくなり、いつも仕事ばかりしていました。朝から、夜まで土、日、祝日、春休み、夏休み、冬休みなどもお構いなしでした。
僕は、こんなに働き詰めの母に少しでも楽をさせたいと、ずっと思っていました。高校生になってバイトが許されるようになると、僕はすぐにマクドナルドでアルバイトを始めました。僕としては、平日の夕方と夜間のほか、土日祝日にも長時間働きたかったのですが、なかなかこちらの希望通りシフトを入れてもらえず、その上、時給も当時の最低賃金そのもの786円でしたので、1ヶ月3~4万円しか稼げませんでした。
最低賃金があがると、時給もそのまま818円になりましたが、苦しい生活は変わりません。そのため、家計は、水道が止まるなど非常に苦しい状況が続き、まさに火の車でした。
2 僕は、小学生の頃から家にいない母に代わって家事をすることが多く、料理もよくしていたことから、いつの頃からか、将来はパティシエになりたいという夢を持つようになりました。
しかし一方で、高校卒業後はできる限り早く職を得て、母親を楽にさせたいという強い思いがありました。また、パティシエの専門学校に行くには安くても数百万という高額の学費が必要だったことから、進学はあきらめ、卒業後はすぐに働こうと決意しました。
3 僕は、在学中から就職活動を始めて,食品工場などを中心に何社も何社も面接を受けましたが、最近の就職状況はとても厳しく、どの企業も不採用になってしまいました。アルバイトとしての採用ならともかく、正社員となると、採用は一気に厳しくなるのです。
結局、卒業までに就職先が決まらなかったので、卒業後は,在学中から勤務していた蕎麦屋でアルバイトを続けました。そこでは,当初ホールを担当していましたが,がんばりが認められて厨房のアシスタントも任されるようになりました。
しかし、時給が上がることはありませんでした。160年以上続く老舗の蕎麦屋で働く安心感もあったのですが、その蕎麦屋も、実家の引っ越しに伴い、住所の変更届を出したところ、社員の要望には応じ、支払われている交通費の増額分は支給できないと言われてしまい、やむなく退職しました。
4 今月から、転居先の近くにあるコンビニエンスストアでアルバイトを始めました。レジ打ちのほかに、廃棄商品の確認、おでんのつゆの補充、店内の清掃などの業務を同時並行で進めなければならず、仕事内容は想像以上に大変です。
時給は、やはり最低賃金とほぼ同額の850円です。稼ぎたいので長時間の勤務を希望していますが、どれだけ自分の希望が通るかは分かりません。
5 僕は、この先もずっと時給850円で働き続けなければならないと考えると、社会から振り落とされそうな気がして、とても不安な気持ちになります。
今の収入では、毎日自分が生きていくので精いっぱいです。専門学校に行くことはもちろん、貯金も一切できません。自動車の免許もとれません。将来的には、当然、自分も、兄や姉のようにがんばって正社員となり、家庭をもって独立したいと思いますが、今の状況ではどう考えても不可能です。
先のことを考えれば考えるほど不安になります。
以前テレビで、最低賃金と生活保護の逆転現象を知りました。僕は、こんなにつらい思いをして働いているのに、生活保護より低い収入しか得られないのでは、働く気がなくなりそうです。
社会は、今就職氷河期で正社員になれない人達があふれています。しかし、アルバイトであっても、きちんと仕事はしています。正社員になれないのであれば、せめて時給1,000円はあたりまえにしてほしいです。裁判所には、どうか僕たちのような時給労働者の現状を理解していただき、最低賃金を引き上げてほしいです。よろしくお願いします。
以上
【Iさん】
1 私は、現在、25歳で、横浜市で一人暮らしをして自分で働いて生計を立てています。平日は法律事務所で一日7.5時間、時給1100円で働き、休みの日には焼き肉屋で時給900円で働いています。
一人暮らしで生計を立てていくためには、月に手取りで20万円ぐらいないと厳しいです。実際、私は一つの職場は時給1100円ですが、それだけでは足りず、アルバイトを掛け持ちしています。それを考えると、働いて生活していくために最低賃金が時給1000円以上というのは当たり前のことであり、現在の神奈川県の最低賃金849円では、フルタイムで働いても到底自立して生きていくことはできません。
2 私は、大学3年生のときにリーマンショックがあり、就職活動が厳しかったため、大学卒業後は短期のアルバイトをしながら、学芸員の資格をとるために引き続き勉強をしていました。保育士の補助、接客業、博物館や美術館などいろいろなアルバイトをしましたが、どの仕事も時給850円から950円ぐらいで、時給1000円を超えるところはありませんでした。
その後、家庭の事情で2年前に実家を出て、友人とルームシェアをして自活するようになりました。そのころ、映画館のアルバイトをはじめ、時給850円で週に4.5日、一日8時間ぐらい働き、月の収入は13万円ぐらいでした。仕事自体はとても楽しくやり甲斐がありましたが、シフト制なので、毎月の出勤日数が安定せず、週に2回ぐらいしか働けないこともあり、給料が月9万円ぐらいのときもありました。
2011年3月には、大震災で映画館が壊れて休館となり3か月ぐらい仕事がなく収入が途絶えてしまいました。家賃などが支払えず親からお金を借りましたが、親は親で祖父母の介護などでお金が必要なので、あまり頼ることはしたくなく、自分の生活は自分で何とかしたいと思って、焼き肉屋のアルバイトを掛け持ちするようになりました。
朝8時から夕方5時まで映画館で時給850円で働き、6時から夜の12時まで焼き肉屋で時給900円で働くという生活を続けていましたが、さすがに体力的に厳しく、「こういう生活がいつまで続くのかな」と先が見えない思いでした。
3 その後、法律事務所のアルバイトの仕事を紹介してもらい、時給が1100円にあがったのですが、今度は、ルームシェアをしていた友人がヘルニアになって美容師の仕事を続けられなくなり、ルームシェアを解消して一人でアパートで暮らすようになったので、生活費が増えて、やはり生活は厳しいままです。
ルームシェアのときは家賃8万円を二人で4万円ずつの負担でしたが、今は、家賃が6万円です。法律事務所の仕事は、時給なので、年始年末や祝日などで休みが多いと、給料が減ってしまいます。1月は職場の営業日が18日なので全日出勤してフルに働いても、月給は14万8500円です。
ここから家賃6万円、携帯電話1万円、ガス代と電気代がそれぞれ3000円ぐらい、水道料金が2か月で2500円、健康保険4000円、このほか、NHK受信料、日用品、食費などを支払うと手元にほとんど残りません。毎月1万5000円の国民年金保険料は、現在支払えていない状況です。加えて奨学金を毎月2万円ずつ返済しており、さらに、1月はボーナス月として返済額が上乗せになり3万円の返済になるので、今月は明らかに赤字です。不足分を穴埋めするために焼き肉屋のアルバイトをしてお正月の3が日も働きましたが、最近はあまりシフトに入れず、月に1,2万円にしかなりません。
4 このように、毎月、ギリギリの生活をしているので、アパートの契約更新のときの更新料や、冠婚葬祭などの特別の出費のために貯金をする余裕は全くありません。最近は、学生時代の友人が結婚することも増え、結婚式や2次会に呼ばれることがありますが、お金がなく、ご祝儀や参加費用、それに着ていく洋服も準備できないため、すべて断っています。ここ2年間で5,6回誘いを断っていると思います。
お金がないから友人のお祝いの席にも参加できず、とても残念な気持ちです。ふだんも友人から食事や遊びの誘いを受けても、お金がないから、ということで断ることが多いです。このようなことを続けていたら、そのうち交友関係も途絶えてしまうのではないかと心配になります。
生活費を節約するために、外食はほとんどしません。業務用のスーパーでもやしや、麺類をまとめ買いして、食費を浮かせて、親が送ってくれたお米3キロを半年ぐらいかけて少しずつ食べて、節約しています。この前は、親から、「もやしは漂白剤をたくさん使っているから食べない方がいい」と言われて、けんかになりました。私が、「将来の健康のことより、明日食べるものが大事なんだよ。漂白剤で体を壊すとか言ってもやしを食べなかったら、私は食べるものなくなるよ」と言い返すと、親は、悲しそうな様子でした。
食費以外も、美容室は3ヶ月に1回、ホットペッパーで初回のお客さん限定の安いクーポンを探していくので、毎回違う美容室です。洋服を買うのは贅沢だと思っているので、服飾費は我慢していますが、できることなら月5000円か1万円ぐらいは買いたいと思います。今は、新しい下着を買いたいと思っていますが、我慢しています。
実家暮らしのときは、ヨガやスポーツジムに通っていましたが、今はそんな余裕はありません。
5 こんな余裕のない生活がいつまで続くのだろうと思います。もう少しお給料がもらえたら、貯金をしたいです。今は、貯金をする余裕がまったくなく、なにかあったときの備えがなくて不安で仕方ありません。仕事を休んだりしたときにしばらくは生活できるだけの貯金がほしいです。
お金がなくて何が嫌かといえば、自分の家族や友人など、大切な人たちに何かあったときに、お金がないせいで何もしてあげられないことです。
まず、自立してきちんと生活していけるだけの収入を得て、その上で、余裕があったら貯金をして、将来の夢や家族、友人とのつきあいにお金や時間を使えるようになりたいと思います。そのために、最低賃金1000円というのは、本当に最低限のラインだと、私自身の生活体験から強く実感しています。
6 私のような生活をしている若者は、たくさんいます。
自立して人並みの健康で文化的な生活をできるように、最低賃金の引き上げを実現して、若者の賃金の底上げがされることを願っています。
以上
【Jさん】
1 私は,今年36歳になります。
中学卒業後,高校には行かずに働くことにしました。ハローワークで仕事を探し,蕎麦屋で働くことになりました。週5,6日ほど働いて月収13万円程度でしたが,5年間ほど働きました。
その後,車が好きで,就職活動にも役立つと思い,車の免許を取り,運送業のアルバイトをしました。やはりフルタイムで働いても月の収入は12~3万円程度でした。
2 21歳のころ、兄に誘われて大手ファーストフード店でアルバイトを始め、現在まで15年間続けています。
お店は24時間営業です。バイトはシフト制で、週5日働いています。私のシフトは、大体、月木が休みで、それ以外の平日が昼の12時から夕方8時まで、土曜日が夕方5時から深夜1時まで、日曜日が夜の9時半から朝方6時までといったシフトです。
仕事では、お肉を焼くグリルやポテトを揚げるフライヤーに囲まれ、年中暑いキッチンの中でハンバーガーなどを作っています。鉄板や油は高温なので、気を付けないと怪我しかねません。フライヤーの中の油は、客足が引いている時間帯にフィルターでろ過して掃除します。作業中にあまり油を冷ましてしまうと、機能が復活するまでに時間がかかってしまうので、油が熱い状態で作業しなければなりません。手や足にかかったりしたら大変な火傷をします。
また、毎週搬入されてくる資材を冷凍室に運び入れたりもします。中には10キロ以上ある段ボールもあります。それを時間短縮のために一回に何個も運びます。さらに、冷凍室の中で古いものを前に、新しいものを後ろに置き換えてローテーションさせなければなりません。暑さと寒さが極端なので、夏は特に過酷です。
夜のシフトのときは、1日使った機材などをすべて洗浄し、フロアの掃除もします。午前0時から6時半まではドライブスルーだけになり注文は減りますが、人数も2人だけに減らされているので、全く楽ではありません。
このようにハードな仕事ですが、時給は860円です。15年前に時給800円で始まり、毎年10円ずつ上がっていましたが,2006年に今の860円になったきり,もう7年も上がっていません。
それでも以前は,人手が足りず,週6日、1日8時間労働ということも多く,月収20万円近くになることもありました。しかし,今はアルバイトの登録人数が増え,また会社のシフトや残業管理もかなり厳しくなったため、週5日、1日7時間しか働けません。そのため、月収はピークの3分の2の、13~4万円程度です。そんな状況でも、お店がすいてきて店長から「今日はもういいよ」と早く切り上げるよう言われると、シフトの途中で帰るしかありません。
車で通勤していますが交通費は出ません。有給休暇を取ったことはありませんし、アルバイトで有給休暇を取っている人を見たこともありません。
制服は,帽子,エプロン,カッターシャツ,ズボンが2着ずつ貸し出され,自宅で洗濯しなければなりません。キッチンで1日働くと,制服は汗や油でとても汚れます。特に,この油は臭いがきつく,汚れも落ちにくので,洗濯機で1回まわしただけでは取れません。深夜や早朝にアルバイトから帰ってくると,すぐに洗濯機を回します。2着しかないので,すぐに洗わないと間に合わないからです。洗濯機で汚れや匂いが落ちていなければ,さらに手洗いをしなければなりません。
男性はカウンターに出ないから多少の汚れはいいのではないかと思う人もいるかもしれませんが,3ヶ月に1回,パフォーマンスと呼ばれる店長との面談があり,そこで身だしなみをチェックされます。そこで時給の査定もされるので,気を抜くことはできません。
3 健康に関しては色々問題を抱えています。2000年くらいに,足の裏からくるぶしにかけて痛み,太ももあたりも痛かったので病院へ行きました。すると,尿酸値が高いことがわかりました。それ以来,尿酸を下げる薬を毎日飲んでいます。 薬の副作用で眠くなってしまうので,仕事中も眠くて辛いときがあります。
また,おととしの2011年11月に胸のあたりが痛くなり,病院に行きました。検査の結果,肺に水が溜まっていることがわかりました。それ以来,やはり薬での治療を続けています。
さらに,2ヶ月くらい前に,テレビ番組で、心筋梗塞で倒れた方のニュースをやっていて、その中で「『中性脂肪が多い』,『尿酸値が高い』といった症状がある人は心筋梗塞等の疑いあり」と言われていました。私も同じような症状があったので,ちょっと恐くなって病院へ行きました。そうしたら、心筋梗塞ではありませんでしたが,血圧が,上が200,下が110と超高血圧だとわかり,すぐに薬を処方してもらいました。
なので,私は,毎日、5・6種類の薬を朝・昼・晩と何錠も飲まなければなりません。
4 私は結婚したいし,子供も欲しいです。そのために、まず実家を離れて独立したいと思っています。父は69歳,母は63歳と高齢です。家には3万円ほど入れていますが、結局は親に頼ってばかりなので、本当に申し訳ない気持ちです。
バイト先には、2,3名の正社員と60名程度のアルバイトがいて、私のように10年以上働いているアルバイトが10人程度,20年以上が2人いますが、これまで私が15年間見てきた限り,アルバイトから正社員になったのは2人しかいません。そのため、このまま今のアルバイトを続けても現状を変えることはできないと思い,一時は転職活動をしていたこともありました。でも日々の生活が忙しく,そのうち考えることをやめました。
しかし,やはりそれではいけないと思い,今年から貯金を始め、3ヶ月で10万円ほど貯めました。具体的な使い道はまだ検討中ですが,中型二種や大型二種の免許を取得して,バスの運転手として働きたいと考えています。
貯金のために、いろいろなことをやめました。ドライブが好きで、以前は気分転換に東名高速に乗って御殿場の方などに行くこともありましたが,ガソリン代や高速代が高いのでやめました。CDや洋服などの買い物も控えています。今年買った服は、770円のズボンと1000円のベルトだけです。また以前は、月に1回、給料日に一皿105円の回転寿司に食べに行くのが贅沢でした。でも、1回で1500円も使っていたので、それもやめました。
バイト中に1時間ある休憩時間には,母が作ってくれたお弁当を食べています。今でこそ,店のメニューを食べるときには割引がありますが,以前は割引がなかったので,母にお弁当を作ってもらうようになり、今も作ってもらっています。お弁当がないときは、健康に気を遣い、肉が多いバイト先のメニューは避けて、近くのコンビニでおにぎりなどを買って食べています。
それでも、今の収入ではやりくりが大変です。まず私の場合、病院代がかなりかかります。尿酸の検査に月に1回行き,検査をするときは診察代が1000円かかり,薬は毎回3000円ほどかかります。肺に溜まった水については,診察は3ヶ月に1回ですが,その度に検査をするので診察代だけで7000円ほどかかり,薬代は3ヶ月分で2万円もします。それに血圧の薬代も入れると、平均して月1万3~4000円程度かかります。
通勤で使っている車のガソリン代で月1万円ほどかかります。もちろん、私には車を買うお金はなく、親が買ってくれました。車両保険は自分で月々3000円ほど払っています。生命保険や医療保険には入っていません。携帯料金も月6000円かかります。そのほか毎日の生活費などを考えると,貯金や親へ渡すお金を絞り出すのが精一杯で、独立するだけの余裕はありません。
親がいなくなった後,この給料で生活していくのかと思うと,とても不安になります。このごろ、両親の具合が悪いのでとても心配です。
5 知り合いから、この最低賃金裁判の話を聞きました。毎日,目一杯働いても一人で生活できるだけの給料にならない,生活保護よりも低いのはおかしいと思い,思い切って参加することにしました。両親も「頑張って」と応援してくれています。私と同じような境遇の人は私のアルバイト先にも多数いますが,独立している人など聞いたことがありません。
時給が1000円に上がれば、月に140時間ほど働いたとして、月給が2~3万円ほど増えます。独立するためには月20万円程度は必要だと思いますが、2~3万円でも貯金にまわせるとすごく助かります。なので、せめて時給1000円に上げてほしいと思います。
先月みなとみらいで催された集会の中で、この最賃裁判を題材にした劇がありました。私は見ていないのですが、集会に参加した方から、その劇を見て泣き出した人がいたと聞きました。その話を聞いて、自分と同じ気持ちの人がいるんだと思いました。私と同じような境遇の人は、賃金が低くて、でも自分の力じゃどうしようもなくて、そういう悔しさとか情けなさとか怒りとかが入り混じったものを感じていると、私は思います。そうした劇をやってくれてよかったと思っています。
裁判所にもできるだけ私たちが置かれている現実を知ってほしい、私たちの気持ちに共感してほしいです。
以上
【Kさん】
1 私は,今年で49歳になります。今は時給850円のコンビニで働いています。
2 私は18歳で結婚し、息子と娘を授かりました。ただ、夫とは平成15年に離婚しました。元夫からの言葉の暴力は日常茶飯事で,時には足蹴りされることもありました。元夫が浮気をしていることもわかっていましたが,むしろ家にいないほうが精神的には楽でしたので何も言わずにいました。とにかく私は二人のこどもを育てることで精いっぱいで、元夫のことには構っていられません。また、自分から離婚を切り出せば子供を取られるかもしれないという思いもあって、我慢し続けました。
その後、元夫の母が病気で亡くなった前後から,元夫の横暴な態度がより一層ひどくなり,結局,元夫から「お前とはこれ以上やっていけない」と離婚を切り出されました。
子どもの養育権は譲りませんでしたが,親権については、逆らうと何をされるかわからず,元夫に取られてしまいました。慰謝料や財産分与も請求できず,養育費だけは子ども一人につき月額5万円と決めました。しかし,その養育費も離婚後半年間は全く支払ってもらえませんでした。
3 離婚して子どもを養っていかなければならなかった私は,短期間でお金を稼ぐために,スナックやパブなどのホステスとして働くことに決めました。夕方6時くらいから深夜0時、遅いときは2時,3時になることもありました。時給は1600円から2000円でしたが,それでも月給で18~20万円程度で,育ち盛りのこども二人を養うには十分ではありませんでした。しかも、最初に働いたスナックのママからは「客と寝てでも客を取ってこい」などといびられるなど、精神的にも辛い思いをしました。
離婚から半年ほど経った頃,私の母が,水商売をしながら子育てをしている私を見るに見かねて,一緒に住んでくれることになりました。離婚して以来,「自分がしっかりしなきゃ」と気を張って頑張っていたので,母が家に来てくれたことで気持ちが楽になりました。また,家事を手伝ってもらったり,時々食費の一部を出してくれるなど物心両面で助けてもらいました。
4 ただ、私は,もともとてんかんの持病があり無理がききません。その上,水商売で毎日のように夜遅くまでお酒を飲む生活が続いていたため,ガンマGTPなど肝臓の数値がみるみるうちに悪くなっていきました。私はこれで体をこわしてはかえってこどもたちや母親に迷惑をかけてしまうと思い,水商売をやめました。そして、大手弁当屋さんパートとして働くことにしました。
弁当屋さんでの仕事は,やりがいがあって、当初は精神的にも楽でした。勤務は1日7時間で週5,6日程度でした。私は、他のパートさんに比べ率先して仕事に取り組み,発注や棚卸し,衛生管理者で名前を出したりもして,その店舗でチームリーダーにまでなりました。クレーム処理でお客さんの家に行き,謝罪しにいったりするなど,店長の代わりのような仕事もしていました。
しかしながら、850円ではじまった時給は,4年半で950円までしか上がらず、月収は手取りで14万円程度でした。月180時間働いたこともありましたが,それでも月収は手取りで16万円程度にしかなりませんでした。こんな給与では家族4人が食べていくだけで精いっぱいで,貯金をする余裕はありませんでした。
5 そんな中,2008年に卵巣嚢腫(らんそうのうしゅ)という病気にかかりました。診察にいった国立病院では卵巣を全部摘出するしかないと言われ,医師の言葉が頭に入ってこない程,大きなショックを受けました。私は,思い切って病院を代えた結果,運よくいいお医者さんに巡り合い,片方の卵巣を残すことができました。ただ,卵巣を摘出した影響は直ぐに表れ,45歳で更年期障害となり,女性としての自信や働く気力が奪われていきました。
6 それでも懸命にフルタイムで働いていましたが,はっきりものを言う性格の私は,会社の地域マネージャーと折り合いが合わなくなり,上司らからパワハラを受け、結局、4年半勤めたにもかかわらず,突然,雇止めされました。私には正社員である店長にも負けないくらいにお店のことを考え,働いてきた自負がありましたが,賃金や手当といった待遇も正社員とは比べ物にならない程悪く,そして簡単にクビを切られてしまうという不安定な地位にあったんだなと、そのときに痛感しました。
雇止めについては労働審判で争うことになりましたが,働かなければ食べていけませんでした。そして、接客業を一から勉強しようと思い,家の近くのコンビニエンスストアで働くことにしました。時給は850円です。てんかんの持病と更年期障害で週3,4日,一日4、5時間程度しか働けず、収入は7,8万円程度でした。
7 娘から短大の国際科に進学したいと言われたとき、当然ながら、入学金や学費を支払うお金はありませんでした。そのため、別れた元夫にお願いをし、娘の学費を出してもらうことになりました。ただ、その代わりに、娘は、短大に行く間、学費を出してくれる元夫のところで生活することになりました。私は、元夫の横暴さを身に染みてわかっていましたし、元夫が再婚していたこともあって、娘を止めました。しかし、娘から「じゃあお金あるの?」と言われ、結局止めることはできませんでした。娘から「お金がないなら余計な口出ししないでよね」と言われたようで、母親として悲しい気持ちになりました。娘は小さいときに父親と離れたので、父親に対するあこがれや期待があるのだと自分に言い聞かせていますが、娘の言葉は今でも心に刺さっています。
8 わたしたち家族がこれまで生きてこられたのは、一緒に住んでくれた母や、まがりになりにも養育費や娘の学費を出してくれた元夫、そして離婚後しばらくしてお付き合いを始め、去年再婚した今の夫の物心両面の支えがあったからです。そうして支え合うのが当たり前なんだと言われてしまえばそれまでですが、それぞれ事情がある中で、そんな援助に期待して生きていくことはできません。
私の娘もビジネスホテルで時給850円で働き、居酒屋のアルバイトも掛け持ちしている状態です。もちろん、今回の裁判で原告になっています。私たちのような非正規社員は、安い最低賃金で働かされるだけ働かされます。長く働けばそれだけ作業スピードや能率が上がっていきます。それにつれて新しい業務を命じられますが、時給は上がらず、結局実質的な賃金は下げられていきます。そして、都合が悪くなると簡単に切られます。病気になれば長く働きたくても働けず、自立して生きていくことはできません。
フルタイムで働いても自立して生活できない、子どもを育てていけない、子どもを持つことさえあきらめざるを得ない、そんな今の最低賃金に大きな問題を感じます。
この日本には餓死する親子すらいます。しかし、私たち親子と彼女たちとの間にどれだけの差があったのでしょうか。私には決して他人事だとは思えません。
9 私は、元夫から、「そんな体で無理して働くより生活保護を受けたら」と言われたことがあります。そのとき「働けるのにそんなずるいことはできない」と思いました。経済的にはその方がいいのかもしれませんが、生活保護は最後の手段だという思いがあるため、働ける間はどうしても生活保護を受けたくありません。
しかし、最低賃金が生活保護よりも下回っている、いわゆる逆転状態が起きているという話を初めて聞いたとき、そんな自分がバカのように思われました。ただ、それ以上にばかげているのは、逆転現象が生じているからといって生活保護を下げようという議論や国の考え方です。
健康で文化的な最低限度の生活とはなんでしょうか。最低賃金とは何のためにあるのでしょうか。この裁判を通してこの疑問に対する裁判所の答えを、誠意ある答えを見せていただきたいと思っています。
以上
【Lさん】
1 私は、現在、5人の子どもと6人で暮らしています。夫とは今年の8月に別居し、現在、離婚調停中です。
子どもは、長男が小学5年生,長女が4年生,次女・三女が双子で3年生、一番下の次男が幼稚園の年長です。
2 夫とは2002年12月に結婚しました。私も結婚前は建築資材の会社で事務系の正社員として働き、結婚後しばらくは続けていました。しかし,夫が仕事を辞めてしまい、茅ヶ崎の夫の実家で暮らすことになり、通勤できず、退職しました。
3 結婚後,直ぐに夫の浪費癖や家庭内暴力に苦しむようになりました。夫は酒に酔って感情が高まると殴る、蹴るの暴力をふるいました。もちろんや家事や子どもの世話もしません。仕事も直ぐにやめてしまいます。そのくせ浪費癖はひどく、家計はとても苦しいものでした。そんなひどい夫でしたが、当時は「この人がいなきゃだめだ」と思っていましたので、逃げようとか別れようとは思っていませんでした。
しかし、今年の夏、「このままだとママ殺されちゃうよ」という長女の一言を聞いて、「もう別れていいんだ」と思えるようになり、8月初め、子ども5人を連れて家を出ました。子どもが夏休み中は大和にある私の実家で1ヶ月ほど生活し、8月28日に茅ヶ崎の2DKのアパートに引っ越しました。暴力を振るってきた夫とは生活圏を別にするためにそのまま実家で暮らすことも考えましたが、子どもたちの学区を考え、茅ヶ崎に留まることにしました。
4 今のスーパーで働き始めたのは次男が生まれた後の2009年1月からです。契約は、週5日、1日3時間の1年契約で、毎年6月に更新されます。
基本の時給は830円です。それに惣菜や青果、レジといった職務ごとの手当がつきます。私が担当しているレジには40円つきます。また1年で更新するごとに時給が5円ずつ上がりますので、今年で5年目の私は、さらに30円足した時給900円です。
月収にすると5万円ちょっとです。別居前は、夫の実家で食べさせてもらっていましたので、家計の足しになればいいかなと軽く考えていました。
また,今年の契約更新の時もまさか家を出ることになるとは考えておらず、また家事育児の時間も確保しなければなりませんので、これまでと同じく1日3時間の契約で更新しました。
ただ、その後別居によって子ども5人を養っていかなければならなくなったため、会社に頼みこみ,なんとか1日4時間働かせてもらっています。そのため、ここ2ヶ月は月8万4000円ほどの収入がありました。とはいえ、会社との契約で年間で103万円を超えられません。
最近、レジだけでなく、サービスカウンターにも入るようになり、金庫、電話対応などを任されるようになりましたが,責任や義務が増えるだけで、時給や手当は変わりません。
5 現在のアパートの家賃は5万2000円です。もちろん、今の私の収入では自立して生活することはできません。今は、2カ月間という約束で実家から援助を受けていますが,両親もお金に余裕はなく、これ以上の援助は期待できません。
会社では1日6時間という契約もあるので、その内容に変更してもらえるよう、会社と交渉を続けていますが、年度途中での変更なのでなかなか簡単にはいきません。転職も考えましたが、現在の職場は家からも近く、子どもたちの理解も得られているため、それも難しい状況です。
6 息子二人は地域のサッカークラブに通い、毎週土日に練習や試合に出ています。一人月2500円です。ただ、他の子はさらにスポーツジムなどのサッカースクールを掛け持ちして平日も練習しています。長男は本当にサッカーが好きで、他の子たちと同じように平日のスクールにも通いたいようですが、さらに月8000円の月謝を払う余裕はありません。子どもがせっかくやる気になっているので、親としてはもっと応援してやりたいのですが、いつも「ごめんね」「考えてはいるけどなかなかできないんだよね」とごまかしています。
また,おもちゃやお菓子をねだられても、「何かのときね」と言って安いものでも買ってあげることはできません。最近では、息子の方が気を使って「あーやっぱりいいや」とあきらめているようです。
娘3人はフラダンス教室に週1回通っています。一人月2500円です。ただ、今は別居などで大変な状況なので、娘たちに説明して休んでもらっています。娘たちも「いいよ」「平気だよ」とは言ってくれていますが、みんなフラダンスの日をいつも楽しみにしていたので、本当に申し訳ない気持ちです。
娘たちは勉強が苦手で、周りの子たちと同じように学研などをやりたいと言います。親としては勉強をしたいと言ってくれるのはとてもうれしいですし、やらせてあげたいのですが、「ごめんね」と言って断るしかありません。
食費は1日1000円、1ヶ月30000円に抑えるようにしていますが、こどもたちはどんどん量を食べるようになってきていて,今後,食費や生活費がどこまで増えていくのか,不安です。
自分がしたいことは今は考えられないというか,むしろこのままでよくて、それよりも子どもたちにもっと勉強やクラブ活動を十分にさせてあげたいですし、もっと栄養のつくものをたくさん食べさせてあげたいです。格差社会と言われていますが,収入の差が子どもたちの教育や成長の格差につながっていることを肌身で感じています。
7 もし仮に1日6時間働けるようになっても月の収入は10万円ちょっとにしかなりません、母子手当や児童手当があっても子ども5人を食べさせるだけで精いっぱいで,貯金や国民年金に回すお金はありません。
また,家事や子供と過ごす時間を考えると1日6時間以上働いたり、仕事を掛け持ちすることもできません。そのため,私たちのような時給で働く者にとっては,時給を,最低賃金を引き上げてもらうしかないのです。それとも家を出た私の判断は間違っていたのでしょうか。あのまま夫と一緒に暮らさなければいけなかったのでしょうか。
8 今の時給や最低賃金は、学生や主婦を基準にしているとしか思えません。私自身,正社員で働いているとき,あるいは夫の実家で生活しているときは,時給や最低賃金について考えたことはほとんどありませんでした。しかし、自分が子ども5人を養っていく立場になって初めて、このような低い時給,最低賃金では生活していくことができないことに気付きました。
裁判所におかれましては,私たちの生活実態を見て,最低賃金を引き上げる判断をしてほしいと思います。
以上
【Nさん】
1 私は、今年で34歳になります。
私は、平成9年3月に高校を卒業し、その後、木工芸の技術を身につけるため、岐阜県高山市の専門学校で伝統工芸の技術を学びましたが、卒業後は、学んだ技術を生かせるような職場がなく、やむなく横浜の実家に戻りました。
その後、区役所や社会福祉協議会でアルバイトをしていましたが、しばらくして、社会福祉協議会の非常勤職員として働き始めました。ただ、1年ごとの有期雇用で、非常に不安定な立場だったので、何とか正社員になりたいと考えていたところ、新たに新設されるデイサービスセンターで正社員として働かないかと誘われ、転職を決めました。
2 ところが、その労働環境は、とても苛酷でした。仕事量に比べてスタッフの人数が圧倒的に少なかったため、ほぼ毎日のように残業を強いられていました。私は、「事務スタッフ」として採用されたのですが、人数不足から、日中は「介護スタッフ」として働き、夕方から「事務スタッフ」の仕事をしていました。勤務時間は、毎朝8時半に出勤して、帰りは22時半を過ぎることがほとんどでした。忙しいときは、24時を過ぎるときもありました。忙しいので休憩時間はなく、昼食は、介護業務をしながら食べていました。休みは、本来月8日の約束でしたが、実際は、多くて6日しかとれませんでした。また、老人福祉施設であれば、体が不自由な高齢者の方を入浴させるためのリフトやリクライニングベッドが設置されているのが普通ですが、そこにはそういった介護機器は設置されておらず、女性スタッフも、筋トレで使う腰ベルトを巻いて、肉体労働をしていました。
このように仕事はとてもハードでしたが、月々の給与は、手取り14万円程度で、ボーナスはありませんでした。残業代は支払われず、「赤字のままだと、給料も出せないよ」と言われたり、給料も遅配になったり、全く支給されなかった月もありました。
3 このような生活を続けて10カ月ほど経った頃、風邪でもないのに身体のだるさが取れなくなりました。また、掃除機をかけていると、真冬にもかかわらず、冷や汗が止まらなくなりました。余りにも体調がおかしいので、病院に行くと、医師からは、「強いストレスが原因だろう」、「もっと休息をとるように」と言われました。
しかし、仕事は休めないので、出勤を続けていたら、3か月ほど経った頃、今度は甲状腺に腫瘍があることが判明しました。すごいショックで落ち込みました。
それを機にデイサービスの仕事は辞め、1か月ほど療養した後、以前勤務していた社会福祉協議会に戻りました。
4 現在の労働条件は、1年更新の有期雇用で、時給970円です。社会福祉協議会での勤務は、通算して7年以上になり、経験を積むにつれて仕事内容も変わっていますが、時給の額はほとんど変わりません。週休2日制で、朝9時から夕方5時まで働いていますが、ひと月あたりの給与は、手取りで11~12万円にしかなりません。ボーナスも一切ありません。
5 このような待遇なので、生活はとても大変です。
私は、60歳になる母と二人暮らしをしていますが、二人の収入を合わせても生活は苦しく、公共料金の支払が遅れることも珍しくありません。父は、私が小学校低学年くらいまでは一緒に暮らしていましたが、その後単身赴任を機に別々に暮らし始め、私が20歳の頃に母と離婚してしまいました。
実家は借家で、家賃は月額9万円です。築50年のとても古い家で、既に30年ほど借り続けています。最近、耐震性に問題があること分かったため、本当は出なければならないのですが、お金がなくて、とても出られる状況ではありません。
また、2年程前に、90歳の祖母が転倒して車いすの生活になりました。現在施設に入っていますが、病院に行くときは家族が付き添うことになっており、そのときは、仕事を休まなければいけないので、欠勤が増え、給与も下がってしまいます。
6 甲状腺の腫瘍については、医師からは、繰り返し、早く手術して摘出した方が良いと言われていますが、20万円の費用が工面できないため、未だ手術の目途はたっていません。通院の負担も、大きいです。甲状腺治療は専門医が少ないため、片道1時間かけて東京の病院まで通っています。毎月1回は必ず通院する必要があり、具合が悪くなると、さらに通院頻度は増えます。
医療費は、1回あたり少なくとも5千円はかかります。その上、3カ月に1回は、体中を調べる検査が必要になり、そのときは1万円程度かかります。交通費も、往復で1500円以上かかります。
7 このような生活状況ですから、私は、自分のやりたいことが全然できていません。
現在、私は、社会福祉主事という資格取得を取りたいと考えています。その資格があれば、嘱託職員の試験を受けることができ、嘱託職員を1年やれば、正社員の試験を受けられるからです。しかし、それにもお金がかかります。先日、大学で受けた講義の受講料として10万円を支払い、それまでの貯蓄をほとんど使ってしまいました。また来年は、社会福祉士の資格取得にもチャレンジしたいと思っていますが、費用の方がとても心配です。もちろん親に頼ることはできません。お金がないと、新しいことにチャレンジする機会すら得られなくなるのだなと感じています。
また、毎日の疲れを癒すために、私もたまには旅行に行ってリフレッシュしたいと思いますが、お金がないので行くことはできません。もちろん、結婚もしたいし、子どもも欲しいと思っていますが、今のままでは夢のようです。
8 最低賃金が1000円になれば、私の時給は30円上がります。たった30円と思われるかもしれませんが、年間で5~6万円になりますから、私にとっては大きな金額です。私たち低賃金労働者は、本当にギリギリのところで生活しています。経済的に困窮していると、新しいことにチャレンジすることも難しくなりますし、結婚や出産すらためらってしまうのです。
お金のある人にはなかなか理解できないかもしれませんが、健康で文化的な生活を送るためには、少なくとも最低賃金を1000円以上に引き上げることは必要不可欠だと思います。
裁判所には、私達のような低賃金労働者の現状を理解していただき、健康で文化的な生活が送れるよう、最低賃金を少なくとも1000円以上に引き上げて欲しいと思います。宜しくお願いします。
以上
【Mさん】
1 私は現在44歳・独身です。葉山にある実家に両親と一緒に住んでいます。
2 私は国士舘大学文学部を卒業した後、一度は製本工場に正社員として就職し、当時の実家があった千葉県船橋市から鎌ヶ谷市に引っ越し、一人暮らしを始めました。製本工場を辞めた後、10数年間、清掃業のアルバイトや準社員として働きました。清掃業と言っても、マンションの巡回清掃から病院の手術室看護助手まで幅広く経験しました。収入は、アルバイトのときは時給1000円で、準社員のときは基本給で19万円程度いただいていました。
3 しかし、結局、正社員にはなることはできず、その後は清掃業ではどこも求人がなくなってしまいましたので、派遣社員への抵抗はありましたが、中長期の工場派遣専門の派遣会社に登録しました。当初はそれでも時給1000円はあり、私もフルタイムで懸命に働き、なんとか生活していました。
そんなある日、派遣先の支社工場で不正が行われていることを知りました。私もその不正の片棒を担がされそうになったので、その不正を本社工場の社長に訴えました。ところが、その不正を隠すためなのか、派遣先を追われたのは、不正をやっていた人間ではなく、私でした。そして登録していた派遣会社からも次の仕事を貰うことが出来ず、私は別の派遣会社に登録し直して仕事を貰いました。
4 新しい派遣会社から紹介された派遣先は時給780円で、交通費も支給されず、フルタイムで働くこともできない職場でした。それ以降は、その日食べるのが精一杯の生活で、精神的にも不安定になっていきました。
当時は、健康保険料も支払えないほど困窮していたため、40度の熱を出して倒れても、アパートで一人寝ていることしかできず、布団にくるまりながら、不安と孤独に押しつぶされそうになったことを覚えています。
5 そのような、私の生活をかろうじて支えていた派遣の職さえも、2009年に30名の派遣社員全員に対する雇い止めによって奪われてしまったのです。「今月いっぱいでもう更新しないから」と言われたのが、その月が終わる4日前でした。低賃金で働かされ、使い捨てにされる、人間扱いされていないことを肌身で感じました。
そのときは伯母を通じて地元議員の助けを得て、生活保護の申請をし、何とか食いつなぐことができました。仕事も紹介してもらい、郵便局のアルバイトが決まりました。ただ、私はそのころには心身ともに疲れ切っていたため、「この職場がだめならもう人生ダメだ」と思い詰めてしまっていました。
当然、そのような精神状態では仕事も上司との人間関係もうまくいかず、ある日、出勤途中の駅で気を失って倒れてしまいました。診断名は『うつ病』でした。その後、職場に出られなくなり、夜も寝られなくなりました。
もう当時のことはよく覚えていないのですが、さらに思い詰めてしまった私は、絶望して、アパートで大量の酒と睡眠薬を飲んで自殺を図ったのです。今思えば本当に身勝手で愚かなことをしたと思いますが、その当時は、それしか道がないと判断したのだと思います。結局,そのアパートにはいられなくなり、葉山の実家に引っ越し、その後、今の仕事に就きました。
6 今の仕事はスーパーマーケットセンター工場で弁当作りのパートをしています。時給は最低賃金ギリギリの880円で、朝の6時から11時までの5時間、週5日ペースで働き、月収は大体6,7万円程度です。
フルタイムで働きたいのはやまやまですが、うつ病に加え、平成25年4月にはS状結腸憩室炎を発症し、2週間に一度くらいの頻度でのた打ち回るような激痛と吐き気に襲われるため、長時間で働くことができません。S状結腸憩室炎の発作で仕事を急に休むこともあるため、私の病気に理解のある今の職場を簡単に辞めて転職することも難しいです。
7 今は実家暮らしで、家賃や光熱費、夜ご飯分の食事代が浮いている状態です。それでも月1万円程度の医療費や携帯代、朝・昼のごはん代、交通費を引くとほとんど給料は残りません。両親は、年金暮らしで経済的に余裕があるとは言えず、また父親は人工透析を受けて健康不安を抱える状態、私に早く自立してほしいと折に触れ言いますが、見通しは立ちません。私も、もちろん結婚して家庭を築くことへの人並みの願望はありますが、今は一人で生きていけるどうかすら分からない状態ですので、正直、それどころではありません。
8 去年発症したS状結腸憩室炎で人工肛門になるかもしれないと医者に言われたときに、心の底から神に祈りました。人工肛門になることは免れましたが、そのときに信仰心が芽生え、昨年末にキリスト教会で洗礼を受けました。お金もなく献金も満足にできませんが、今はこの信仰が私の心の支えです。
9 私は派遣になり,780円まで時給を下げられたとき、初めて最低賃金の低さを実感しました。最低賃金が人間として最低限度の生活を担保するものになっていないのです。
能力がないから正社員になれない、賃金も低いのが当たり前、突然切られても文句を言えない、そんな社会がまかり通っていいのでしょうか。労働者であればどんな労働者でも保障されるべき生活のレベルがあるはずです。その一つが最低賃金のはずです。
この最低賃金の問題は、神の導きを祈りによって待つのではなく、人間自らの手によって解決できる問題のはずです。裁判所におかれましては、私たち労働者の願いを真摯に受け止めていただき、公正公平な判断をされるようお願いします。
以上
【Oさん】
1 私は現在44歳・独身です。葉山にある実家に両親と一緒に住んでいます。
2 私は国士舘大学文学部を卒業した後、一度は製本工場に正社員として就職し、当時の実家があった千葉県船橋市から鎌ヶ谷市に引っ越し、一人暮らしを始めました。製本工場を辞めた後、10数年間、清掃業のアルバイトや準社員として働きました。清掃業と言っても、マンションの巡回清掃から病院の手術室看護助手まで幅広く経験しました。収入は、アルバイトのときは時給1000円で、準社員のときは基本給で19万円程度いただいていました。
3 しかし、結局、正社員にはなることはできず、その後は清掃業ではどこも求人がなくなってしまいましたので、派遣社員への抵抗はありましたが、中長期の工場派遣専門の派遣会社に登録しました。当初はそれでも時給1000円はあり、私もフルタイムで懸命に働き、なんとか生活していました。
そんなある日、派遣先の支社工場で不正が行われていることを知りました。私もその不正の片棒を担がされそうになったので、その不正を本社工場の社長に訴えました。ところが、その不正を隠すためなのか、派遣先を追われたのは、不正をやっていた人間ではなく、私でした。そして登録していた派遣会社からも次の仕事を貰うことが出来ず、私は別の派遣会社に登録し直して仕事を貰いました。
4 新しい派遣会社から紹介された派遣先は時給780円で、交通費も支給されず、フルタイムで働くこともできない職場でした。それ以降は、その日食べるのが精一杯の生活で、精神的にも不安定になっていきました。
当時は、健康保険料も支払えないほど困窮していたため、40度の熱を出して倒れても、アパートで一人寝ていることしかできず、布団にくるまりながら、不安と孤独に押しつぶされそうになったことを覚えています。
5 そのような、私の生活をかろうじて支えていた派遣の職さえも、2009年に30名の派遣社員全員に対する雇い止めによって奪われてしまったのです。「今月いっぱいでもう更新しないから」と言われたのが、その月が終わる4日前でした。低賃金で働かされ、使い捨てにされる、人間扱いされていないことを肌身で感じました。
そのときは伯母を通じて地元議員の助けを得て、生活保護の申請をし、何とか食いつなぐことができました。仕事も紹介してもらい、郵便局のアルバイトが決まりました。ただ、私はそのころには心身ともに疲れ切っていたため、「この職場がだめならもう人生ダメだ」と思い詰めてしまっていました。
当然、そのような精神状態では仕事も上司との人間関係もうまくいかず、ある日、出勤途中の駅で気を失って倒れてしまいました。診断名は『うつ病』でした。その後、職場に出られなくなり、夜も寝られなくなりました。
もう当時のことはよく覚えていないのですが、さらに思い詰めてしまった私は、絶望して、アパートで大量の酒と睡眠薬を飲んで自殺を図ったのです。今思えば本当に身勝手で愚かなことをしたと思いますが、その当時は、それしか道がないと判断したのだと思います。結局,そのアパートにはいられなくなり、葉山の実家に引っ越し、その後、今の仕事に就きました。
6 今の仕事はスーパーマーケットセンター工場で弁当作りのパートをしています。時給は最低賃金ギリギリの880円で、朝の6時から11時までの5時間、週5日ペースで働き、月収は大体6,7万円程度です。
フルタイムで働きたいのはやまやまですが、うつ病に加え、平成25年4月にはS状結腸憩室炎を発症し、2週間に一度くらいの頻度でのた打ち回るような激痛と吐き気に襲われるため、長時間で働くことができません。S状結腸憩室炎の発作で仕事を急に休むこともあるため、私の病気に理解のある今の職場を簡単に辞めて転職することも難しいです。
7 今は実家暮らしで、家賃や光熱費、夜ご飯分の食事代が浮いている状態です。それでも月1万円程度の医療費や携帯代、朝・昼のごはん代、交通費を引くとほとんど給料は残りません。両親は、年金暮らしで経済的に余裕があるとは言えず、また父親は人工透析を受けて健康不安を抱える状態、私に早く自立してほしいと折に触れ言いますが、見通しは立ちません。私も、もちろん結婚して家庭を築くことへの人並みの願望はありますが、今は一人で生きていけるどうかすら分からない状態ですので、正直、それどころではありません。
8 去年発症したS状結腸憩室炎で人工肛門になるかもしれないと医者に言われたときに、心の底から神に祈りました。人工肛門になることは免れましたが、そのときに信仰心が芽生え、昨年末にキリスト教会で洗礼を受けました。お金もなく献金も満足にできませんが、今はこの信仰が私の心の支えです。
9 私は派遣になり,780円まで時給を下げられたとき、初めて最低賃金の低さを実感しました。最低賃金が人間として最低限度の生活を担保するものになっていないのです。
能力がないから正社員になれない、賃金も低いのが当たり前、突然切られても文句を言えない、そんな社会がまかり通っていいのでしょうか。労働者であればどんな労働者でも保障されるべき生活のレベルがあるはずです。その一つが最低賃金のはずです。
この最低賃金の問題は、神の導きを祈りによって待つのではなく、人間自らの手によって解決できる問題のはずです。裁判所におかれましては、私たち労働者の願いを真摯に受け止めていただき、公正公平な判断をされるようお願いします。
以上
【Pさん】
1 僕は、現在27歳です。今は、僕と母の二人暮しです。
父は、僕が中学校3年のときに離婚して、別々に暮らしています。兄弟は、姉が一人いますが、姉は、僕が大学生の頃に、結婚して独立していきました。
2 僕は、2005年に高校を卒業し、大学に進学して、芸術学科で絵画や映像制作を学びました。
2009年に大学を卒業した後は、地元の相模原市内のプラスチック製品の加工会社に勤務しました。しかし、プラスチックを加工するときに大量に飛散する粉じんが身体に有害と聞かされ、また、現に同僚が体調を崩して病院に通っている状況等を聞いて不安になり、やむなく退職しました。
退職後は、色彩検定の資格を取るために、1年コースの専門学校に通いました。というのは、僕は、かねてから大学で学んでいたことを生かして、もっとクリエイティブな仕事をしたいと考えおり、そのためには、もっと勉強をして色彩検定の資格を取るのが有益だろうと考えたからです。僕としては、色彩検定の資格を取得した上で、服飾系の仕事か、あるいは、色の心理的・生理的効果を使って心のケアをする「カラーセラピー」という仕事に就きたいと思っていました。
専門学校の学費は70万円もかかりましたが、それまで、こつこつ貯めてきた自分の貯蓄から支払いました。
3 2010年、専門学校を卒業し、また目標としていた色彩検定の資格も無事取得した上で就職活動を始めましたが、不況の煽りを受けて求人がほとんどなく、なかなか内定はもらえませんでした。ハローワークはもちろん、ありとあらゆる求人広告をチェックして、文字通り「必死に」就職活動をつづけましたが、結果は変わりませんでした。
そのような生活を1年ほど続けた頃から、いつのまにか体に力が入らなくなりました。会社を辞め、高額な学費を払って1年間も勉強したにもかかわらず、就職できないという現実が受け入れられなかったのだと思います。
自分に対する自信を喪失し、ついには、外に出られなくなってしまいました。いわゆる、ひきこもりです。
母親は、そのような私の様子を見て酷く心配しました。僕自身も、早く何とかしなければと思いましたが、気持ちばかりが空回りして、なかなか思うようにいきませんでした。ただ、自分だけではどうにもならないと思ったので、最初は物凄い抵抗があったのですが、市のカウンセリングにも通いました。
4 そのような生活を1年ほど続けた頃、母から、勤務先の会社の仕事を手伝ってほしいと誘われました。というのは、母親は、電子機器の基盤を組み立てる会社に勤務していたのですが、そこで人手が足りなくなったので、期間限定のアルバイトとして働けないかと誘われたのです。
僕は、苦しい家計の足しにしたいという思いと、自分自身この機会を逃せば永久に社会復帰できないかもしれないという不安から、思い切って外に出ることにしました。慣れるのに時間がかかりましたが、働いて稼いで休むという生活サイクルを繰り返すことで、徐々に前向きな気持ちを取り戻せるようになりました。
5 2012年6月、母の勤務先と同業の会社がたまたま求人をだしていたので、応募したところ、採用してもらうことができました。
雇用条件は、時給900円のアルバイトです。採用時は、最低賃金と同額の849円でしたが、2013年6月に時給900円に昇給してもらえました。ボーナスはありません。
原則として、月曜から金曜までの週5日勤務で、忙しいときは土曜日も出ることがあります。勤務時間は、朝9時から、お昼の1時間休憩を経て、夕方6時10分までです。年末年始で忙しいときは、夜の9時や10時になることもあります。
6 1か月の手取額は、12万円から13万円程度です。ここから、家賃光熱費、携帯代、インターネット代、生命保険料等の固定経費を支払うと、手元には2~3万円しか残りません。
最近は、服も満足に買えません。下着だとか靴下とかですら、まともに買い揃えることができず、穴が開きそうなほどペラペラになっても使っています。
友人らから遊びに誘われても、お金がないため、断ることも少なくありません。以前、大学の友達から久しぶりに飲み会に誘われたときにも、お金がなくて行くことができず、つらい思いをしました。
外出した際の食事代は安く済ませなければいけないので、マクドナルドなどを利用しています。でも、本当は、もう少し体にいいものを食べたいというのが本音です。
将来のことを考えても、結婚という誰もが思い描くことが、今のままでは出来ません。結婚したときに家族を養うことができるかどうか、子どもが生まれたときに対応しているだけのお金があるかどうか、ということを考えると、今の生活ではとても難しいと思うのです。
今は、母と同居しているので、なんとかやりくりできていますが、自分が独立して一人で生活していくとなると、貯蓄は一切できず、ただ生きるだけの生活になってしまうと思います。身近な友人を見ていると、皆、成人として独立していくので、独立することに憧れますが、今の僕にその選択肢はありません。
7 今回、最低賃金の裁判に参加しようと思ったのは、知人から誘われたことがきっかけです。その知人とは、社会をよくして行こうという思いで、定期的に勉強会を開いており、かねてから、若者が生きづらい状況があることについて何とかしたいと考えていました。
僕の場合、最低賃金が1000円になれば、年間20万円くらいの増収になると思います。その20万円で、生活ががらりと変わることはないと思いますが、現在の収入に加えて毎年少なくとも20万円の収入が得られると思うと、将来の不安は減り、気持ちは大きく変わると思います。また、今まででは、興味のある講演会があっても、交通費を気にして行かないこともありましたが、今後はもっと参加したいです。今は、年越し派遣村の村長をしていた湯浅誠さんの講演に興味があります。
8 お金のある人にはなかなか理解しづらいかもしれませんが、低賃金労働者の生活は本当に苦しく、結婚はもちろん、下着の購入、友人との飲み会、講演会への参加など、当たり前のことが当たり前にできなくなります。このような状況を少しでも改善するために、どうか最低賃金を1000円以上に引き上げる判決を出してください。よろしくお願い致します。
以上
【Qさん】
1 私は現在40歳,独身で,鶴見区の生麦で一人暮らしをしています。
2 私は高校卒業後、現在の製造業の仕事につき、半年間の期間従業員を経て、正社員になりました。今は工場でタイヤを組み立てるラインで働いています。
2005年に親会社が変わり、さらに2008年末にリーマンショックが起こって以来、賃金は大幅に下げられ,その一方で一人当たりの業務量は増えている状況です。現場は3分の1以上が非正規社員で,私のラインも社員と派遣が2人ずついます。正社員というと聞こえはいいかもしれませんが,待遇はよくないばかりか,正社員だという理由で作業長から「早くしろ」とあおられます。派遣社員がミスをすれば、私たち社員が作業長に怒られ、その後処理をしなければなりません。
就業時間は、基本的に週5日午前8時から午後5時までですが、東日本大震災後、完全2交代制になり、隔週で午後8時から午前5時までの夜勤をしなければならなくなりました。
3 2005年に親会社が変わって,それまで400万円ほどあった年収が一気に300万円以下に下げられました。また、同時に成果主義賃金制度が導入され、結局,賃金が上がるかどうかは上司の評価次第になってしまい,ベースアップもなければ年功序列で賃金が上がることもありません。景気がよければ残業ができるだけです。
4 私は,リーマンショックで大幅な賃金カットをされ、手取り13万円まで引き下げられたときに、これでは生活していけない、いつ死のうかと思い詰めることもありました。そのときに「カット分についてどうしたらいいのか」と会社の人間に相談したところ、「仕事に影響がでない程度だったら自分で稼げ」と言われました。それで掛け持ちできる仕事を必死に探して,今のコンビニのアルバイトを見つけたのです。
コンビニのアルバイトは,土曜日の午後10時から翌日午前8時まで、日曜日は午後5時から10時まで働いています。時給は870円で深夜が1200円、早朝が920円です。今朝もアルバイトをしてきましたが、駅近ということもあって早朝は忙しく、920円は安すぎると改めて思いました。
本業で平日働き,土日はアルバイトをしてと,全く休みがないため体力的にはかなりきついです。いつか体にガタがくるかもしれません。ただ,本業の方では,正社員の私を退職に追い込みたいのか、上司から毎日のように「帰れ」「やめちまえ」などと言われ,精神的にかなりきつく,このまま本業を続けていかれるのか不安です。そのため,コンビニのアルバイトも辞めるに辞められません。
5 月の収入は、本業で手取り20万円ほどです。リーマンショックの時は一律で賃金がカットされたりしてかなり厳しかったのですが、今はその時よりはよくなっています。ただ,先ほどお話しした夜勤が月10日間あって,その夜勤手当約5万円がついてその金額なので,40歳の給与としてはあまりにも低いと思います。アルバイトの方は,月6~8万円ほどもらっています。
本業もいつどうなるかわかりませんので,生活費は極力減らしています。食事は一日1~2食に減らし,昼の時間は、ご飯を食べずに栄養ドリンクを飲んで昼寝をして過ごしています。夜は牛丼チェーン店などで安い牛丼を食べて帰ります。食費は1日1000円以内には抑えるようにしています。
それでも住居費や光熱費、携帯料金、私の唯一のストレス発散であるタバコなどを除くとそれほど余裕のある生活ではありません。
また、ここ数年のことですが、本業の方で細かい備品を社員に自腹で購入させるようになったため,手取りが目減りしている状況です。たとえば、職場では摩擦で消えるボールペンを使わなければならないのですが、それも自分で購入しなければなりません。また、ライン内にあるゴミ箱のビニール袋やその他の筆記用具も自腹で購入しなければなりません。
特に金額的に痛いのが、作業服です。作業服は夏冬の年2回に2枚ずつ支給されますが、作業をしているとすぐに汚れてしまうので買い替えなければなりません。しかも作業服が汚れていると作業長が「替えろ」「替えろ」「替えろ」「替えろ」と頭も耳もおかしくなるくらいに何度もバッシングしてきますので,それが嫌で上下で2300円もする作業服を月に2,3回は購入しています。
結婚や子供なんて考えたこともありません。条件として一定の収入がないとだめだろうし、自分のこともどうなるかわからないのに妻や子供を養う自信なんて持てません。
自分の今の希望はもうかれこれ10年以上使っている洗濯機や掃除機といった家電製品を買い替えることです。
6 本業もリーマンショックのときと比べるとよくなりましたし、アルバイトも続けていますので,体力的・精神的にはかなりきついですが,ほかの原告さんの話を聞く中では自分は恵まれている方だと思います。また,アルバイト先のコンビニでは,アルバイトで生計を立てている人もいますが,店長のさじ加減でシフトを減らされたりして生活に困窮してしまうなど,人としての扱いをされていないと感じる場面が多々あります。
私も,正社員とはいえ安い給料でハードワークをさせられ,収入的にダブルワークをせざるを得ない状況に追い込まれ,上司からは毎日のようにいびられるなど人として扱われていないと感じながら,疲労困憊で生活し,ご飯を食べている状態です。
貧困から抜け出したい,そのためには最低賃金を引き上げて賃金の底上げをするしかないと思います。裁判所におかれましては,私たち労働者の願いを真摯に受け止めていただき、公正公平な判断をされるようお願いします。
以上
【Rさん】
1 私は横須賀でタクシーの運転手をしています。38歳です。
今は父親名義の家で、妻と、12歳の長男、10歳の次男の4人暮らしをしています。
2 私は久里浜高校を卒業した後、湘南工科大学工学部機械工学科に進学しました。その後、平成13年3月に知人の紹介でパソコン関連の会社に就職し,それに先立って2月に今の妻と結婚しました。
しかし,会社は入社当初から経営的に苦しい状況で、平成14年1月には賃料滞納を理由に事務所の立ち退きを求められてしまいました。
私は、社長の足代わりとなって1年ほど会社の残務処理に追われましたが、その間給料が支払われませんでしたので、家賃を払うことができなくなり、平成14年4月に妻の実家に住まわせてもらうようになりました。その年の8月に長男が生まれ,翌平成15年にはようやく会社の整理も終わり、未払いだった給与も行政から補償を受けることができました。
3 その後は、デパートの売り子などを派遣する会社に入社し、移動店舗やデパートで販売員をしていましたが、平成16年に派遣法が改正されたタイミングで給与ががくんと下がりました。この年の12月に二男が生まれて,私も派遣で働きながら1年間子育てを手伝っていました。
平成18年2月に知人の紹介で発電機やコンプレッサーなどをリースする会社に正社員として入社しました。そのときに、父親名義の今の家に引っ越し,家賃として月6万円を父に払うことになりました。
入社した会社は手取りで20万円ほどあったので待遇としては悪くなかったのですが,事務所の先輩に理由なく殴られて警察沙汰になるというトラブルに遭ってしまい、平成19年4月に退職せざるを得なくなりました。
その後、地元で働ける場所を探し、平成19年7月に現在のタクシー会社に正社員として入社しました。タクシー運転手に必要な2種免許は派遣社員をやっているときにつぶしが利くように取得していたものですが、かれこれもう7年も働いています。
4 会社には午前3時20分に出勤して午後8時半まで働きます。客待ちを含め3時間ほど休憩がありますので,夕方は一度自宅に戻って夕食を食べてまた仕事に行きます。出勤は,月,金,日,火,木,土,月というサイクルで月に12日間働いています。
現在の給料は,基本給が12万6000円ですが,売上が30万円を超えなければ歩合が出ないので,基本給しかもらえません。入社した当時は歩合がもらえる程度には売上もありましたので、手取りで月に大体15、6万円もらっていました。また、半年の月平均で36万円の売り上げがあれば夏冬のボーナスももらえたので、年収も額面で240万円程度ありました。
しかし、その後のリーマンショックと東日本大震災の影響で売り上げが大幅に減りました。そのため、父親に頼みこんで家賃を3万円に下げてもらいましたが、それでも収入は減る一方でしたので家賃の支払を免除してもらうようになりました。ボーナスは平成23年の冬を最後にもらえなくなりました。平成24年以降は月の売り上げが30万円を超えず、歩合がつかない月も出てきて、この1年はついに売上が30万円を超える月がなくなり,年収も150万円程度にまで落ちてしまいました。
5 それでも私たち家族4人が生活できるのは、親のおかげで家賃がかからないことや、妻が結婚前に貯めていた預金を切り崩したり、子どもができた後も短期間働いて生活費の足しにしたりと、家族が懸命に支えてくれているからです。この年になっても年金暮らしの親のすねをかじっていることにみじめさを感じることもあります。それでも妻はお金のない今の生活に何の不満も言わずに明るく接してくれて、そのことで自分の気持ちがどれだけ救われているかわかりません。ただ、妻も切り崩す貯金がなくなってしまったため、今年の5月からクリーニング屋で週4日,1日5,6時間働くようになりました。
子どもたちも家計の状況を理解しているのか,ものを欲しがったりすることもありません。以前はファミリーレストランなどに行くこともありましたが,一人1000円くらいはかかってしまい,その一人1000円を払うのがきつくて,今では外食をすることはめったにありません。子どもの誕生日などに一皿100円の回転寿司や牛丼チェーン店に連れていくこともありますが,そんな場所でも喜んでくれる子どもたちを見て,もっと良いところに連れていってあげられたら,と不びんな気持ちになります。
私たち家族はお金がない前提で必死にその日その日を生きていますので,「お金があればこうするのに」とかそういった夢や希望自体が思い浮かんできません。
6 今は私と妻合わせて20万円弱の収入で生活していますが、家族4人の食費、光熱費や電話代、学資保険などを払うと生活するのがやっとです。二人の子どもには水泳を習わせていて,それが月に1万5000円ほどかかります。正直痛い出費ですが、子どもたちには何も買い与えてやれずいつも不自由な思いをさせているので習い事だけは意地でも続けさせたいと思っています。私自身は,震災で収入が減ったときに酒を辞め,平成24年にたばこの値段が上がる前にたばこもやめました。
今の生活では貯金もできず、年金も大してもらえる見込みもないため将来が不安です。また,こどもに急な出費があったときには自分では出せませんので,情けない話ですが親に頼るしかありません。長男は来年中学生になりますが,制服代などを支払うお金もありませんので今から親に頼んでいる状況です。今は健康面での問題はありませんが,今後どうなるかわかりません。今の状況では私や妻に何かあったときに対応できるだけの余力はありません。
私もあと3年でタクシー運転手として10年になりますので,個人タクシーを開業する道も見えてきます。ただ,個人になったからといって劇的に収入が上がるわけでもありません。転職するなら40歳が限界だと思っていますので,転職情報誌を色々と見ています。
7 私は,タクシー業界自体が最低賃金を割っている今の現状にいきどおりを覚えていました。そのようなときに,同じタクシー仲間から最低賃金裁判の話を聞きました。私は,今の最低賃金は家族が生活できる水準とはとても思えないので,裁判所できちんと適正な最低賃金を定めるべきです。また,最低賃金が1000円になり,労働者の賃金水準が底上げされれば,タクシー業界全体の需要が伸びることにもつながると考えています。そうした思いで,この裁判に参加することを決めました。
裁判所には私たち労働者が置かれている苦しい現実に目を背けず,最低賃金を1000円以上とする判決を出していただきたいと願っています。
以上
【Sさん】
1 私は現在、26歳です。実家に両親と3人で同居しており、老人ホームの調理補助のパートとして働いています。
2 私は、2006(平成18)年3月に地元の高校を卒業した後、大学の文学部に進み、2年間通いました。大学時代は、飲食店等でアルバイトをしていました。
しかし、途中で大学に行く目的を見失い、そんな状態で両親に学費を出してもらうのは申し訳ないと思うようになり、2008(平成20)年3月、20歳で大学を中退しました。
ちょうどそのころ、両親から、私がC型肝炎にかかっていると聞かされたので、大学中退後の半年間は、C型肝炎の治療を集中的に行いました。この間かかった何十万円もの治療費は、両親が負担してくれました。
3 そして、治療がひと段落ついたところで本格的に働くことにしました。大学時代からやっていた居酒屋のアルバイトをさらに増やして働き、22歳からは、現在の会社に調理補助のパートとして勤めています。いまの仕事には、調理補助の仕事だと飲食業でのアルバイト経験が活かせるし、調理関係の資格の取得に繋がるかもしれない、という軽い気持ちで応募したのですが、入社してみると業務はとても大変なものでした。
仕事はシフト制で、1日に、早番・遅番でそれぞれ調理士1名、調理補助1名ずつ、合計4名が入ります。年末年始の休みはなく、連休もほとんどありません。仕事の内容は、朝食、昼食、おやつ、夕食の準備ですが、朝食は入居者用に約110食、昼食はデイサービスの利用者分、スタッフ分も含めて約225食、おやつは約180食、夕食は約110食を準備します。メニューは一般メニューのほか、アレルギー対策のメニューや咀嚼する力のない方用の流動食メニューがありますし、一般メニューにも常食、やわらか食、糖尿食、減塩食の4種類があり、これらすべてを4名で準備します。このうち、調理補助の仕事は、朝食については、各階に料理を分けて出すだけですが、昼食・おやつ・夕食については、材料を切る、混ぜるなどの簡単な調理作業も行います。鍋・釜・寸胴など調理器具の洗い物や、翌日の流動食の食材の準備も調理補助の仕事です。
早番は7時からですが、7時に調理場に入っていたのでは7時半までの朝食出しに間に合わないので、私は6時40分に入るようにしています。また、休憩時間は1時間ですが、休憩を1時間もとると午後の準備が間に合わないので、30分程度で切り上げることもしばしばです。みんなでなんとか仕事をまわしていますが、仕事量に対して調理場スタッフの人数が不足しているので、常に身体を動かしている状態です。
4 これだけ働いているのに、現在、時給910円で、1ヶ月の給料は手取りで約13万円です。毎年3月に昇給があることになっていますが、2011(平成21)年入社当時850円だった時給は、3年目の2013(平成25)年3月に50円、4年目の2014(平成26)年3月に10円上がっただけです。
5 生活状況
(1)私は、手取り13万円のうち、家には毎月生活費1万円しか入れていません。半年に一回、C型肝炎の定期健診を受けるのですが、その費用も両親に負担してもらっています。もう26歳という年齢なので、本当はもっと生活費を入れたいですし、医療費も自分で負担したいのですが、生活費や保険料の支払いなどもあり、いまの給料ではとてもできません。その分、なるべく食費は自分で負担しようと、食事は自分で材料を買って作るようにしていますが、材料費も大きな出費です。
(2)洋服も買いますが、一枚4000円ほどはしますので、毎回、買うのかどうか躊躇し、我慢することも多いです。買うときには、なんとか4000円以内でうまく良い物を見つけようとお店を色々見て回って買っています。年齢が上がるに従い、年相応の物を身に着けたいと思うのですが、値の張る物はなかなか買えません。
正社員をしている友人と一緒に買い物に行くと、見る物の値段が違い、金銭感覚の違いを感じます。私にとっては高い物も、友人にとっては普通の値段だったりします。そんなとき、私も一生懸命働いているけれど、正社員とは生活が違うのだなと感じ、辛くなります。
(3)休日、交際相手のもとに遊びに行くときには、往復600円以上の交通費を気にしてしまいます。食事代などは、交際相手が出してくれます。本当は、私も自立した大人として半分負担したいのですが、その余裕がなくて負担できず、交際相手には申し訳ない気持ちでいます。
友人の誘いも出費を考えると躊躇することがあります。飲みに行くと1回2500円ほどはかかるので、お金がないときは「いま(金銭的に)厳しいから」と言って断らなければなりません。
ただ、私にとって、交際相手や友人との繋がりはとても大切です。この繋がりがなければ、ただ働いて食べて寝て過ごすだけの生活になってしまいますが、そんな生活は送りたくないので、なるべく交際費や交通費は気にし過ぎず、出したいと考えています。
(4)実家住まいで、周りから親に甘えていると見られてしまうのも辛いです。人並みに親元から自立して一人暮らしも経験したいのですが、現実には経済力がなく、できません。
いまは両親が私の生活を支えてくれていますが、父は65歳、母は62歳で、何かあってもおかしくない年齢です。いまの収入では、両親の支援がなくなるとすぐに生活できなくなってしまうので、もしものときに備えて毎月3万円ずつ貯金をしています。少ない給料だからこそ、貯金をしておかなければ不安なのです。母も私の将来を心配して、私が家に入れる生活費1万円を私のために貯金してくれています。
(5)私は常に、何日に給料が入るのか、あといくら残しておかなければいけないのかを気にしながら生活しています。給料の支払日が週末にあたり、振込みが週明けとなるだけで、前月の振込みから1ヶ月以上空いてしまうので、かなりきついです。ずっと家に引きこもっていれば困らないのかもしれませんが、そんな生活はしたくありません。もう少し金銭的に余裕があれば気持ちも楽だろうなと思います。
(6)このような生活状況ですので、私は26歳で結婚してもおかしくない年齢ですが、いまの生活のことだけで精いっぱいで、先のことは考えられません。自分たちだけで経済的にやっていけるのか等不安が大きく、実家を出ることや結婚については、私にそんなことができるのかなと思います。
6 国や裁判所にいいたいこと
福祉の現場は重労働です。みんな毎日必死に働いています。人のいのちを預かる現場なのに何故こんなに給料が安いのだろう、と思ってしまいます。仕事は嫌いじゃないのできつくてもがんばれますが、がんばっても給料は上がりません。この実態を変えてほしいです。
時給が1000円になっても手取りは14万円ちょっとにしかならず、独立するには足りませんが、それでも今よりは生活がだいぶ楽になります。
裁判所には、せめて最低賃金を1000円以上とする判決を出していただきたいと思います。
以上
2 .横浜地裁における、原告側弁護団の最終準備書面。
3 .横浜地裁、東京高裁、最高裁の3つの判決文。
4 . 最賃裁判では、最低賃金引き上げの正当性の根拠に関して、憲法学者や社会政策学者、経済学者との連携により理論的に
下支えしていただきました。裁判所に提出した以下の4つの意見書は、2018年現在時点においてもなお、最低賃金闘争の理論的最高の到達点を示すものと考えます。
① 「労働者の生計費」を最も重視して最低賃金を決定すべきことについて、制度・歴史・政策における総合的観点からまとめられた、小越洋之助氏(國學院大学名誉教授・経済学)の意見書。
② 憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」には、最低限度の衣食住の満足だけでなく、親族・友人との交際や地域社会への参加及び趣味等を含む文化的・社会的活動も含まれると解されており、最低賃金の決定においてこれらの観点も不可欠であることについての、遠藤美奈氏(早稲田大学教授・憲法)の意見書。
③ 金澤誠一氏(佛教大学教授・経済学者)の全面協力の下、裁判と並行して神奈川労連が「憲法25条『健康で文化的な最低限度の生活』実現をめざす『労働者生活実態調査』」の結果を踏まえて、憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」とはどういう生活なのか、明らかににした金澤誠一氏の意見書。
④133人の原告らの生活と労働実態をまとめた神奈川労連の議長を長く務めた水谷正人氏の意見書。